シメオン

1.聞くこと、服従

2.信仰

3.シモン・・服従の信仰

4.反対の意味

5.そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。(ルカ2・25)

 

 

 

 

1.聞くこと、服従

 

黙示録講解443イ(3)

 

『シメオン』とその種族とは服従の中にいる者たちを意味しているのは、その種族の父祖である『シメオン』は「聞くこと」を意味している語から名づけられ、『聞くこと』は服従することを意味しているためである。このことはその母レアがかれを生んださいその言った言葉から認めることができよう、それは以下のごとくである ―

 

レアは再びみごもり、息子を生んだ、かの女は言った、エホバはわたしがきらわれていることを聞かれたため、それでわたしはこの者をまたわたしに与えられた、と、かの女はその名をシメオンと名づけた(創世記29・33)。

 

(これらの語の説明のためには「秘義」、3867-3872番を参照し、『聞くこと』はそこでは服従することを意味している、2542、3869、4653-4660、5017、5471、5475、7216、8361、8990、9311、9397、9926、10061番、また前の14、108、249番を参照されたい。)

 

 

 

 

 

 

2.信仰

 

天界の秘義3869

 

すなわち、何であれ耳と目により、または聞くことと見ることとによって入るものはことごとくかれの理解の中へ入って行き、理解を通って意志へ入り、意志から行動へ入っているのである。それと同じように信仰の真理は先ず記憶知における信仰の真理となり、後に意志における信仰の真理となり、最後に行為における信仰の真理となり、かくて仁慈となるのである。記憶知におけるまたは理解における信仰は、すでに示されたように、『ルベン』であり、意志における信仰は『シメオン』であり、意志における信仰が仁慈となるとき、それが『レビ』である。

 

 

黙示録講解443イ(3)

 

『シメオン』は服従を意味しているため、かれはまた信仰を意味している。なぜなら信仰は、かれが服従して、その誡命を行うとき信仰となるからであり、それが行われない中は、人間が聖言から、教会の教義から、説教から引き出したような事柄の知識は信仰として見えはするが、しかしそれは人間がそうした事柄を行わない中は信仰ではないのであり、それまではそれは単に記憶から発している知識の事柄にすぎず、その中には意志は何一つ存在しておらず、従ってその人間は何一つ存在してはいないのである、なぜなら意志はその人間その者であるからである、それゆえ人間がそのことを行うとき、すなわち、服従するとき、それは存在するのであり、それは意志に入り、かくてその人間その者に入って、信仰となるのである。

 

 

3.シモン・・服従の信仰

 

黙示録講解443イ(4)

 

服従であるこの信仰はまたペテロにより、かれが『シモン』と呼ばれているとき、意味されており、真理に対する情愛である信仰は、ペテロが『ヨナの子シモン』と呼ばれているとき、かれにより意味されているのである(マタイ16・17-19以下、マルコ1・16-18、36、14・37、38、ルカ5・3-11,7・40-43、22・31-33以下、24・34、ヨハネ1・40-42,21・15-21)。ヘブル語の『シメオン』は前に言ったように、聞くことを、傾聴することを意味し、そこから服従することを意味しており、『ヨナの息子』は善から発した真理を意味しているが、『ペテロ』は真理そのものを意味しているため、ペテロは主から時には『ペテロ』と呼ばれ、時には『シモン ペテロ』と呼ばれ、時には『ヨナの息子シモン』と呼ばれている。こうした名はこうした意義をもっていることをたれでもペテロが主から時には『ペテロ』、時には『シモン』、時には『ヨナの息子』と呼ばれていることから認めることができるのであり、そうしたことは原因または意味がなくては行われはしなかったのである。その時にかれに言われたことは意味されていることを明らかにしている、かくてかれが主は神の子であられることを告白し、その結果天国のかぎがかれに与えられたとき、かれは『ヨナの息子シモン』と呼ばれ(マタイ16・17以下)、主御自身が予言者の書の中に再三 岩[ペテラ]と呼ばれたもうているように、また岩[ペテラ]と呼ばれているのである。さらにかれは、主がかれに『あなたはわたしを愛しますか』と言われ、かれは『わたしはあなたを愛します』と言ったとき、『ヨナの息子、シモン』と呼ばれているが、仁慈の善を意味しているヨハネがイエスに従っているため、間もなく主から身をそむけて、激怒したとき、『ペテロ』と呼ばれているのであり(ヨハネ21・15-21)、ここの『ペテロ』は善を欠いた真理を、または仁慈から分離した信仰を意味しているのである。

 

 

黙示録講解443イ(5)

 

このことから以下のことを認めることができよう、すなわち、『シモン』は、ペテロがそのように名づけられているときは、ヤコブの息子、『シメオン』と同じような意義をもっており、すなわち、服従[従順]、仁慈の信仰、真理に対する情愛を意味し、全般的には、善から発した真理を意味し、全般的には、善から発した真理を意味している、なぜならヘブル語では『シモン』は聞くこと、耳を傾けること、服従を意味し、ヘブル語のヨナは鳩を意味し、鳩はその霊的意義では仁慈の善を意味し、『ヨナの息子[]』はその善の真理、または仁慈の信仰を意味する一方では、『岩[ペテラ]』は ― ペテロはそこから名づけられたのであるが ― 真理と信仰を意味し、その反対の意味では、誤謬と信仰の欠如[不在]を意味するからである(前の411番を参照)。

 

4.反対の意味

 

黙示録講解443ロ

 

ヤコブの子『シメオン』は、かれから名づけられている種族とともに、服従[従順]、意志における真理を意味し、そこから信仰を意味していることはその反対の意味から認められることができ、その意味では不服従[非服従]、意志における誤謬を意味し、かくて意志から分離した信仰を ― それらは何ら信仰ではないが ― そうした信仰を意味している、なぜなら聖言における大半の事柄はまた反対の意味をもち、その中ではそれらは対立した事柄を意味するからである。シメオンがその父イスラエルによりその息子たちにかかわる予言の中で言われているのはこの意味であり、そこには以下のように言われているのである ― 

 

シメオンとレビとは兄弟である。暴行の道具はかれらの剣である。かれらの秘密の中へはわたしの魂を入らせるな、かれらの集会の中にわたしの栄光を結びつけるな。かれらはその怒りにより男を殺し、ほしいままに雄牛の腱を切った。呪われよ、かれらの怒りは、それは狂暴であり、また(呪われよ)かれらの狂憤は、それは頑なである。わたしはかれらをヤコブの中に分割し、イスラエルの中にまき散らそう[四散させよう](創世記49・5-7)。

 

5.そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。(ルカ2・25)

 

ルカ2・25

 

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P227

 

 物見高い見物人が幾人か集まった。その中に、杖にすがって足をひきずり、背中をかがめた小柄な老人が、何とか道を開けて出てくる。相当な年らしい。多分、八十歳を越えているだろう。老人はマリアに近づき、ちょっとだけ幼な子を抱かしてくれるように頼む。マリアは、ほほえみながら、彼が望むとおりにする。 

 私は、彼が祭司階級に属しているとばかり思いこんでいたが、少なくとも服装から見れば平信者であるシメオンが、子供を抱いて接吻する。イエズスは、乳飲み子の漠然としたしかめ顔でほほえむ。老人は、同時に泣いたり笑ったりして涙がしわの中に入り、長い白いひげを伝ってピカピカ光るので、イエズスは面白そうに、それを見て小さい手を伸ばす。イエズスと言っても、まだまだ小さな乳飲み子にすぎず、自分の前に動くものは何でもその注意をひき、物珍しくて、それにさわりたがる。マリアとヨゼフはニコニコしている。他の人々も、この幼な子の美しさをほめたたえる。

 私は聖なる老人のことばを聞き、ヨゼフのびっくりした目つきと感動にあふれるマリアのまなざしとを見る。一団の人々の中にも、老人のことばを聞いて、びっくりして感激する人もいるが、笑う人もいる。この人たちの中に、堂々たるひげをした尊大な衆議会員たちも、幾人かいるが、頭をふってシメオンを皮肉ないたわりの目で見る。その年で、老人の頭が狂ったとでも思ったにちがいない。

 シメオンが、苦しみを告げる時に、マリアのほほえみは消える。彼女が“知ってはいても”そのことばは心に刺さる。何か慰めを求めるかのようにヨゼフに身を寄せ、熱狂的に子供を胸に抱きしめ、乾いた心でアンナのことばを聞く。アンナが、女らしく彼女の苦しみに同情し、永遠なるものは、苦しみのその時をこの世ならぬ力をもって和らげられるだろうと約束する。

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P229

 

 イエズスが言われる。

「前の場面の描写から、皆のために二つの教訓がある。“第一の教訓”。真理は、儀式だけは何とかやっても心はうわの空の祭司にではなく、平信者に表れる。

 

 神と絶えず、交わり、宗教行事を行う祭司は、その朝、神殿に奉献された幼な子が、どなたであるかを直観すべきであった。しかし、この直観ができるためには、あの祭司のように死んでいないとしても、眠っている心ではなく、生きる魂を持つことが必要であった。神の霊は、もし望まれるなら、雷を聞かせ、稲妻をもって打ち、非常に鈍い心もゆすぶることができる。しかし、一般的に言えば、秩序の霊である神は、その派出を迎えるに充分に値するものと言わないまでも、その派出を受け入れる善意のある人に行われる。

 

 今、言ったこの善意は、どのように行われるかというと、できうるかぎり全く神のために生きる生活によってである。これは信仰、従順、純潔、愛徳、寛大さ、祈りの生活である。いわゆる“信心業”ではなく、祈りの生活である。“信心業”と“祈り”との間には、昼と夜よりも大きなちがいがある。祈りとは、神との“心の一致”で、これによって人は力づけられ、ますます神のものになりたいという決断を起こさせる。その代りに“信心業”とは、さまざまな、しかし、いつでも利己心のために行われる単なる“習慣”で人を変えることなく、むしろ偽りと怠惰の罪を加えるものである。

 

 シメオンには、今、言った善意があった。人生は、彼にその善意と苦しみを与えた。しかし、彼はその善意を失わなかった。長い歳月といろいろな変遷とは、主に対しての信仰、主の約束に対しての信仰に傷をつけ、ゆるがすことはなく、ますます神にふさわしいものとなる、その善意を疲れさせることはなかった。したがって、神は、忠実な僕の目が、この世の太陽の光の閉じられる前に ― 私の受難と殉教の後に開かれる天を照らす神の太陽がまた開かれるのを待ちつつ ― 神はその霊を送り、この世に降った光りを見せるために、老人を神殿にまで導いたのだった。

 

 “霊に導かれて”と福音書は言う。なお、聖霊が、どれほど完全な友であるかを人間が知ったら!どんな案内者、どれほどの師であるかと知ったら!この霊を愛し、三位一体のこの愛、光よりの光、火よりの火、この知恵、この上智をこいねがったら、知る必要があることを、どれだけ多く知らされることか!

 

 マリア、ごらんなさい。子らよ、ごらん。シメオンは“光りを見る前に”神の約束が実現されたと知る前に、長い長い生涯を待ったあの老人は疑ったことがない。“私は希望して祈り続けるのに何の役にも立たない”とつぶやいたことはない。根気強く希望し続けた。それで、あの祭司と、傲慢と愚鈍に満ちた衆議会員たちが見なかったもの、暖かさとほほえみとを与える幼い肉体の中に、神の子メシア、救い主を“見る”光栄が与えられた。シメオンが、幼い私の唇をとおして、正直で敬虔な生涯の、最初の褒美、神のほほえみをもらったのである。

 

エフレム/聖母賛歌

 

10・⑪

 

カフ

あなたは、マリアのご胎内にやどり、馬小屋におさめられ、

シメオンにささえられます。

おお、勇士であられる神よ!

あなたは、かぎられるもの、ささえられるもの、

人にふれられるもの、

そうです、肉体をまとわれたあなたを、

本性として、かぎりないお方であるにしても、

人々は手でさわって、たしかめます。

おお、なにものにもかぎられないあなたのご本性が、

小さな馬小屋の、せまぐるしさにかぎられるとは!

そうです、かぎりのないお方よ、

あなたは一つのかぎりあるものとなりました。

 

 

20・20

 

神が〔人間として〕生まれなかったといいはる、あなたたち、

ユダのなかまよ、さあ、きておききなさい。

シメオンが、この世のきずなをといて、

いかせてくださいと願ったのは、

まことの神でありながら、人となられた、

霊たちの、まことのあるじでは、なかったでしょうか?

 

 

20・25

 

〔生まれたばかりの〕みどり子は、

ものいうはずもなかったが、

聖霊にしめされ、あの方であるとみわけたシメオンは、

おさな子をみるとすぐ、

ためらわないで、祈りを向け、

こえ高らかに、

“このみ子こそ人となった神”といって、宣言しました。

 

 

20・28

 

おさな子をおがむこの翁、

この年おいた人は、おさな子を、証明します、

このみ子こそ、ほんとうは、

“日のおいたおんもの”、

ダヴィドが、

「おさな子よ、あなたははじめからいますと」、

宣言したあのお方である。

 

 

20・29

 

知恵たけたあの年おいたシメオンは、

神殿でおさな子をだき、

注意ぶかくながめたとき、みとめたのです、

この、生まれたばかりのおさな子が、

“日の老いたおんもの”であることを。

かれは、日の老いたおんものとして祈りを向け、

おさな子にねがって、いいました、

「主よ、おんあわれみによって、いまこそ、私をいかせてください」。