聖山アトスの修道者

シルワンの手記

(1866〜1938)

ベルフォンテン修道院編/あかし書房

 

 

 

 

あかし書房/ベルフォンテン修道院編/聖山アトスの修道者シルワンの手記/P5

 

 修道者シルワンは、1866年中央ロシアのタンボフ郡に生まれ、1938年9月24日にその生涯を閉じた。彼は二十六才のとき聖山アトスにはいり、最期まで、そこで全く目立たぬ一介の修道者として生活を送った。アトスでの最初のわずかな期間は、いわゆる独住修道者としての修行を積み、その後、アトス最大のロシア人共同体である聖パンテレイモン修道院で修道生活を送り、他に会計とか購買係などの仕事、耕作や製粉の労働にも従事した。彼の日常は他のすべての修道者のそれと全く同じであり、仕事の単調さと霊的生活の単純さのため、他の者はだれ一人として彼の偉大な霊性に気づくことはなかった。

 

 

シルワンの手記/P30

 

 清い祈りをささげるためには、柔和で、謙遜でなくてはならないし、誠実な心をもって罪を告白しなくてはならない。目上に従い、すべてにおいて満足しなさい。そうすればあなたの心は虚しい考えから解放されて、祈りを大切にするようになる。

 

 

シルワンの手記/P30

 

 主が常にあなたをごらんになっていると自覚しなさい。隣人を批判したり、傷つけたりしてはならない。自分の顔つきで隣人を悲しませてはならない。これを守るなら、聖霊はあなたを愛し、すべてにおいて助けてくださる。

 

 

シルワンの手記/P36

 

 最初に、私たちにとって霊的指導者が必要です。なぜなら、聖霊の恵みを受けないうちに、心はサタンに対して一層はげしく戦い、一人の力だけで、そのいざないに対抗することができないからです。

 

 霊的指導司祭なしに、祈りの生活を始めてはならない。書物の助けだけで、一人で間に合うなどと高慢心を起こすな。このように考える人は誘惑に負ける。いや、もう負けたのだ。しかし、謙遜な人は神の助けを受ける。豊かな体験をもつスタレツを見つけることができなかったら、自分の聴罪司祭―どんな司祭であろうと―と相談しなくてはならない。そうすれば、主ご自身はあなたの謙遜さのゆえに、あなたを守ってくださる。

 

 

シルワンの手記/P37

 

 主は私たちを愛して下さる。しかし、私たちが謙遜になり、自分たちの無力さを認めるように、主は苦しみを与えてくださる。貧困や病気のため苦しむ人が、謙虚にその苦しみを耐えないなら、いたずらに苦しむだけである。けれども謙虚な人は神が彼の宝と喜びであるために、常に喜びに満たされる。

 

 

シルワンの手記/P40

 

 謙虚で体験豊かな人は常に主の恵みを感謝し、毎日神によって天に上げられ、神の栄光を見、次のように祈るだろう。「主よ、あなたは栄光を見せてくださったが、感謝する力と涙の恵みをお与えください。天と地において、あなたに賛美。しかし、私には罪のために涙を」と。一生にわたって、私たちは罪のために悲しまなくてはならないと、主がおんいつくしみによって悟らせてくださった。キリストの謙譲さに近づくことより偉大なことはない。謙虚な人は他のものを見ない盲人のように、すべてにおいて喜び暮らす。謙虚な人だけが聖霊において、主を見る。謙虚さは、光である神を見るための光だ。詩篇は言う。「あなたの光に、われら光を見る」(36・10)と。

 

 

シルワンの手記/P47

 

 私たちは人びとを愛さないので、心の平安を失うのだ。

 

 

シルワンの手記/P47

 

聖霊の平安に満たされている人は、その平安を輝かせ、他人にもその平安をもたらすが、悪の霊をもつ人は悪を産み出す。

 

 

シルワンの手記/P48

 

 聖霊の恵みが少しでも心の中にあるならば、その人はすべての人のために泣く、特に神を知らない人、神に反抗する人を思いやる。彼はその人が回心して、神を認めるように昼も夜も祈る。キリストはご自分を十字架につけた人々のために祈っておられた。「父よ、彼らをおゆるしください。何をしているのか知らないのです」。聖ステファノスも迫害者のために祈り、この罪の責任を彼らに負わせないように執り成した。私たちは恵みを保ちたいと思うなら、敵のために祈るべきだ。罪人を思いやらない人は聖霊の恵みをいただけない。

 

 

シルワンの手記/P49

 

 生きるために体は呼吸も食物も必要とする。神と聖霊の恵みは心の糧だ。太陽が野の草花に光と生命を与えるように、聖霊は心を照らす。花が太陽に向うように、心は神に向う。心は神において喜び、そしてその喜びをすべての人に告げる。主は天において、愛において、ご自分と共に常にいるように、私たちをお造りになった。

 

 

シルワンの手記/P57

 

 神のみ旨に従って生活しているかどうか、ということをあなたはどのように識別ができるか。その基準はこれである。あなたは何かについて思いわずらうなら、それがみ旨を行っていると思い込んでも、まだすべてをみ旨にゆだねていないしるしだ。み旨を行う人は、思いわずらうことがない。何かが必要であれば、その人はそれと自分を主にゆだねる。彼はすべてを主にまかせる。必要なものをいただかなくても、いただいたかのように、彼は平安だ。どんなことが起こっても、神のみ旨だと思って恐れない。病気になったとしても、自分にとって必要な病気だと思う。必要でなかったら、主はそれを許さないだろう。このようにして、彼は体と魂の平安を保ち続ける。すべてにおいて、神にゆだねるようになった人は神においてのみ生き、そしてこのような内的な喜びのうちに、すべての人のために祈る。

 

 

シルワンの手記/P65

 

 兄弟に暴力をもって当たらないこと。兄弟を絶対に裁かないこと。優しさと愛をもって説得すること。高慢とかたくなさは平安を奪う。愛してくれない人を愛し、その人のために祈れ。そうすれば、あなたの平安は乱されることがない。

 

 

シルワンの手記/P66

 

 神の母よ、あなたが地上で主とともにどのように暮らしたか知りたい。しかし、それを聖書の中で打ち明けてくださることをお望みではなかったので、その秘密は沈黙に包まれている。

 

 私がまだ若い修練者であったある日、神の母のイコンの前で祈っていた。するとイエススの祈りが私の心に湧き出で、その後ずっと心に留まっている。ある日、聖堂で、預言者イザヤの言葉を聞いた。「洗い、浄めよ」と。そのとき、私は、神の母はたった一つの考えだけでも罪を犯したことがあろうか、と自問した。そして、私が祈っている間、はっきりと次のような声が心の中に響いてきた。「神の母は一つの考えによってだけでも罪を犯したことがない」と。このように、聖霊は私の心の中で、聖母の清さを証してくださった。

 

 神の母の一生は、聖なる沈黙に包まれている。しかし、その愛が全世界に及ぶことと、彼女が聖霊において地上のすべての民を見てあわれんでくださることを、主は教会に知らせてくださった。

 

 いと清き神の母の、罪人に対する愛がどれほど偉大なものであるかを、すべての人に知ってもらいたい。私は、それを体験した。私は神の母を知らなかったが、聖霊は彼女を知らせてくださった。四十年前に、神の母は罪人だった私を訪れ、教えてくださった。惨めな私は、そのことで死んでしまうはずだったが、彼女の声を聞いて、次の言葉を深く心に留めた。「あなたがやっていることを私は望みません。」その声は決して忘れられないほど、優しく快く愛に満ちていた。罪人である私は神の母の恵みといつくしみをどのように感謝してよいのか、いまでも分からないでいる。

 

 

シルワンの手記/P70

 

 ある人は言う。「修道者たちは この世に仕えるべきだ。働かない人はパンを食べてはならないからだ。」 しかし、修道者の奉仕とはどんなものであろうか。修道者はどのようにこの世に尽くすのだろうか。修道者は涙をもって全世界のために祈るのだ。これこそ、彼らの仕事である。全世界のために泣き、祈るように促すものはだれなのか。神の子イエススは聖霊において愛を与えてくださる。そして修道者は、すべての人について絶え間ない心づかいをする。なぜなら、多くの人は自分たちの救いを求めないからだ。

 

 私は自分のために祈るように、他の人のためにも祈ることだけを望む。人々のために祈るということは、自分の心の血を与えるという意味だ。

 

 世界のために祈る人は、この世がどれほど苦しんでいるか、人々の必要がどういうものなのか、ということをよく知っている。新聞を通してこの世を知るよりも、もっとはっきりとこの世を見抜くほど、祈りは人の精神を浄化する。

 

 

シルワンの手記/P71

 

 主は「罪を犯す人は自分の罪のとりこになる」と言われる。このような奴隷の状態から解放されるために、多くの祈りをささげるべきだ。真の自由とは、心を尽くして、神と隣人を愛することだ。完全な自由とは、常に神に留まることだ。

 

 

シルワンの手記/P72

 

 肉体労働によってこの世に奉仕することは修道者の使命ではなく、信徒の役目とされる。修道者たちによって、地上の祈りは絶えることはない。これはこの世における修道者の存在の意義だ。この世は祈りに支えられて存在を続ける。祈りが絶えれば、この世は滅亡するだろう。ある修道者がなまぬるい祈りしかささげないないなら、また、絶え間ない観想に生きることができなければ、巡礼者を迎えたり、労働によって、この世の人々を助ける仕事をすればよい。これも神にかなうことだ。しかし、これは真の修道生活ではない、と知るべきだ。

 

 修道者は自分の情欲と闘い、神の助けによってそれに勝たなくてはならない。時々、修道者は天国にいるかのように、神において幸せだ。すべての人が救われるように望む修道者は、たびたび、彼らのために泣き、祈る。結局聖霊は、神とこの世を愛するように修道者を教える。現在、すべての人のために祈る修道者はもういないと言われるかも知れない。しかし、私は言う。この世において祈る人がいなくなれば、大災害、宇宙万物の破滅さえも起こるのだ。

 

 聖なる使徒たちは聖霊が彼らのうちに生きていたから、神に打ち込んで人々にみ言葉を宣べた。このように、修道者も物理的に狭く貧しい独房に追い込まれても神の偉大さを観想する。兄弟に非礼を行わないように、悪い考えによって聖霊を悲しませないように、心の見張りをする。彼はへりくだって、自分からも、自分の祈りを頼りにする人からも、悪霊を遠ざけさせる。

 

 

シルワンの手記/P74

 

 謙虚な人はすでに敵に勝つ。自分は永遠の火に値すると固く思う人には悪霊も近づけないし、また心の中で一つの悪い考えも持てない。彼の魂は主において完全に憩う。聖霊を知って、聖霊によって、謙虚さを身につけた人は、神の子であり自分の師であるイエスス・キリストに似るようになる。

 

 

シルワンの手記/P74

 

 聖なる師父たちは断食や祈りよりも従順を重んじた。なぜなら、不従順な修道者は、自分が苦行者であり、祈りの人であると思い込んでいたからだ。しかし、自分の長上、自分の霊父の手に自分の意志をゆだねた修道者だけは、精神的な清さをもつ。

 

 したがって、不従順な人は清い祈りをいつまでも知ることがない。高慢で頑固な人は修道院に百年暮らしたとしても霊的な清さを知らない。不従順によって、長上を侮辱し、神を侮辱する。

 

 じぶんの考えに対して警戒することによってのみ、私たちは内面的な平安を保つことができる。

 

 他人を裁かないこと。たびたび、人は私たちが全然知らないことについて、あるいは十分に知らないことについて話す。その兄弟は霊的に天使のようなのに。

 

 おせっかいしないこと。自分の勤めに注意して、受けた命令に従うこと。そうすれば、神は恵みによってあなたを助けてくださるし、あなたは平安と絶え間ない祈りという従順の実りを味わう。

 

 

シルワンの手記/P76

 

 私たちは、キリストの掟に従って兄弟を愛する努力をしないで、共同生活において、たびたび神の恵みを失う。あなたは兄弟に侮辱されたとき、彼を裁いたり、憎んだり、彼に対する悪い考えを抱いたりすれば、あなたの魂には恵みははいりにくい。したがって、魂の平安を保ちながら、あなたに対して悪口を言う人を愛したり、彼のために祈ったりするように訓練しなさい。主は「敵を愛しなさい」とおっしゃったので、すべての人を愛するように。全力を尽くして、神に祈りなさい。彼らを愛さないならば、神の恵みを味わえないのである。

 

 

シルワンの手記/P77

 

 人は従順によって、高慢になることを免れる。神はその従順によって、祈りの恵み、聖霊を与えてくださる。したがって、従順は断食と祈りよりも大切なものである。

 

 

シルワンの手記/P77

 

 全き謙虚さを身につけたなら、神における完全な平安を見つけるだろう。私たちの心の中で二つの正反対の考えが起こりうる。一つは「自分は聖人だ」という考え、もう一つは「自分は絶対に救われない」という考えである。あなたはこの両方の考えと闘いなさい。両方とも正しくない考えであり、両方とも悪魔からくるものである。

 

 むしろ次のことを思いなさい。「私は大罪人だが、神はいつくしみ深いお方で、人々を愛し、私の罪をゆるしてくださる。」すばらしい霊的な努力をしても自分の苦行に頼ってはならない。ある日、一人の苦行者が私に言っていた。「私は多くの屈拝(メタニア)するので神によみせられるだろう。」しかし、死に直面したとき、彼は絶望の状態にあった。神は私たちの苦行のためではなく、ご自分のいつくしみのために、私たちをあわれんでくださる。

 

 不信仰はいつも高慢からくる。高慢な人は自分の理性で、すべてを理解しようとするが、神は謙虚な人にのみご自分を示し、ご自分のすべてのわざを見せてくださる。神のみ旨に一切をゆだねる人はいつも静かで、平安に満たされ、主がお守くださり、お恵みによって生かされているということを、聖書によっても自分の体験によっても知っている。

 

 

シルワンの手記/P78

 

 私の心は神に溺れている。謙虚に私自身をみ旨にゆだねるならば、主は必ず私を導いてくださると確信している。

 

 

シルワンの手記/P79

 

 祈る心は自分のうちに愛を感じる。そして、聖霊はその人の救いを証してくださる。

 

 

シルワンの手記/P80

 

 私たちは毎日常に闘っている。謙遜になるための闘いだ。悪魔は高慢のために堕落した。そして私たちを誘惑する。しかし、兄弟たちよ、この地上ですでに神の栄光を仰ぎ見ることができるように、はずかしめを求めよう。主は聖霊によって、謙虚な人にご自分を現わすからだ。

 

 

シルワンの手記/P80

 

 私は長い間、何が自分の身に起こっているかを理解できず、こう考えていた。「私はだれをも裁かない。悪い考えを受け入れず、忠実に任務を果たし、断食し、常に祈る。なぜ悪魔たちは私に襲いかかってくるのか。私は間違っているのだろうか。その理由がよく分からない。祈れば、悪魔たちは一時退くが、いつもまた戻ってくる。長い間、私はこのような戦いをしている。」それで私はあるスタレツにそれを打ち明けた。彼は黙って聞いてはくれたが、私は相変わらずその迷いの中に留まった。ある夜、私は自分の独房の中で腰かけていた。突然多くの悪魔に囲まれてしまった。熱烈に祈りをすると、悪魔たちは一時追い出されるが、また戻ってきた。イコンの前で屈拝するために立ち上がると、悪魔は私の礼拝を自分に向けさせるために、私の前を立ちふさぐ。私はまた腰かけて祈った。「主よ、ごらんください。私は清い心で祈りたいのですが、悪魔たちはそれを許しません。どうしたらこれから解放されるか教えてください。」すると神は私の心に答えてくださった。「高慢な人はいつも悪魔のために苦しむ。」私はまた尋ねた。「いつくしみ深い主よ、謙虚になるために、どうすればよいのですか。」主は答えてくださった。「地獄の中に意識的に留まりなさい。絶望してはなりません。」

 

 おお、神のいつくしみよ、私は神と人の前に醜いものです。しかし、主は私を愛し、励まし、いやし、謙虚さと愛、忍耐を教えてくださる。主は私の上におんいつくしみを注いでくださった。その時以来、私は意識的に地獄にいて、その暗い片すみで焼き尽くされていると感じる。しかし神を望み、泣きながら捜し求めて言う。「近いうちに私は死に、地獄の暗い獄舎にはいり、そこで独りで焼かれ、主に叫んで泣くに違いありません。私の心をご存知の神よ、どこにおいでになるのですか。」このような考えは大いに私の助けとなり、精神を浄め、心に真のやすらぎをもたらした。神のわざは何とすばらしいことよ。主よ私が希望を失わず、しかも地獄に意識的に留まるように命令される。主はそこにもこんなに近くおられる。

 

「私は世の終わりまで皆さんとともに毎日いる」(マタイ28・20)「悩みの日々、私に叫びなさい。私はあなたを救う。そして、あなたは私を賛美するだろう。」

 

 

シルワンの手記/P84

 

 悪霊に襲われたとき、主があなたを守ってくださることを忘れてはならない。サタンそのものを見ても、彼があなたを炎の中に投げ込もうとしても、あなたの霊をとりこにしようとしても、あなたは恐れてはならない。神に強く希望を置き、「私はだれよりも悪い人間だ」と言いなさい。そうすれば、悪魔はあなたを放っておく。悪霊があなたに働きかけることを感じるからということで、落胆する必要はない。誠実に罪を告白し、謙虚さを主に願いなさい。主は必ずそれを与えてくださる。そして、あなたの謙虚さの度合いに応じて、恵みを感じるが、もし完全に謙虚なものになったら、あなたは完全な平安を受けるだろう。

 

 

シルワンの手記/P98

 

 ある日、晩祷のとき、私は救い主のイコンに注目しながら、「神の子主イエスス・キリスト、罪人なる我をあわれみたまえ」と祈り続けていた。その時、突然、イコンの代わりに、生きておられる主イエススが現われ、聖霊の恵みは私の魂と体を満たした。そして、私は聖霊において、イエスス・キリストが神であることを確信し、彼のために苦しみを受けたいという望みにかられた。

 

 その時以来、私の心は神の愛において燃えている。私はもう地上のものに魅惑されない。神こそ私の喜び、私の力、私の知恵、私の富である。どれほど被造物を愛してくださるかということを人に知らせてくださる主よ、私はあなたを、わが主、わが造り主として認めるようになりました。