主を信じる

 

 

黙示録講解84

 

このことからヨハネ伝の以下の言葉により意味されていることを知ることが出来よう―

 あなたたちはわたしを見ます、わたしが生きているために、あなたたちもまた生きるでしょう(ヨハネ14・19)。

(主を『見まつる』ことは主を信じることであることについては、前の14、25、37番を参照し、『信仰を持つこと』または『主を信じること』は愛と仁慈との中にいることであることについては、小著「最後の審判」23−39番を、「新しいエルサレムの秘義」108−142を参照されたい)。

 

 

 

真の基督教108

 

 主は現今、救い主なる神なる主を信ずる者のみによって成り立つ、新しい天使的天界を形成し給いつつあり、その他の者は凡て斥けられている。それ故、若し今後、何人であれ、死後凡ての者が入る所の霊界へ基督教国から入って来て、主を信ぜず、また主のみに近づかず、そしてその時邪悪な生活を送り或は虚偽を確信してしまった為に、この教義を受けることが出来ないならば、凡て天界の入口で斥けられ、天界から面を反けて、低地に向い、そこに赴き、黙示録の竜及び偽の予言者の意味するそこの住民に加わるのである。更に基督教国に生活しつつも宗教を信じない者は何人と雖もその祈りは聞かれない。その祈りは天界にあっては腐敗した肺臓から発する不愉快な臭気、毒気に似ている。たとえ彼は己が祈りは薫物の芳香のようであると想像しているにしても、それは天使的天界へ昇って行く際荒々しい風のため、彼の目へ吹き返されてくる焔の煙のようなものであり、或は修道僧の外衣の下の香炉から立ち昇る燻物のようなものである。単一性の三一性の神の代りに分離した三一性の神に向けられた敬虔の凡ては今後このようなものになるであろう。本書の主要目的は神的三一性は主の中に合一されていることを示すことである。

 

 

天界の秘義9244

 

天界的愛[天界の愛]の中にいる者は凡て、自分たちは主により救われるであろうという信頼を持っている、なぜなら彼らは主は、信じ、主が教えられた戒めに従って生きる者たちに永遠の生命を与えるために世に来られ、主はその者たちを再生させ、かくしてその者たちを天界に適わしいものとし、主はそのことを、人間の助けなしに、純粋な慈悲から、主御自身のみで行なわれることを信じるからである。このことが『主を信じること』により意味されているのである。

 

 

 

真の基督教151

 

 主を信ずるとは単に彼を認識するのみではなく、彼の誡命を守ることである。何故なら、彼を単に認知することは、単に彼を部分的に理解することから生まれる思考の事柄であるが、しかし、彼の誡命を守ることは意志によって認識する事柄であるからである。人間の心は理解と意志から成り、理解は考え、意志は行動する。それ故、人間が単にその理解の思考によって主を認める時は、単にその心の半分を以て主に来るに過ぎない。しかし、主の誡命を守る時は、その全心を以て主に来るのであり、これが信ずることである。もしそうでないならば、人間はその心を分割し、皮相的に自らを強制して、上を凝視させ、他方その肉は下に傾き、かくて、彼は鷲のように天界と地獄の間を飛び交うのである。しかし、彼は上に向けられた凝視に従うのではなく、肉の快楽に従うが、これは彼が地獄に在るからである。それ故、彼は彼処に飛んで行き、彼処で己が肉欲に犠牲を捧げ、悪魔に神酒を注ぎ、その顔に愉悦をたたえ、その眼に火を閃かせ、光の天使の容姿を装うのである。主を認めはするが、その誡命を保たない者は死後このような悪鬼になる。