主を仰ぐ
1.人間は自分自身によっては悪から逃れることは出来ず、ただ主によってのみ逃れることが出来るため、主を仰がねばならない
2.善と真理は彼自身のものでないことを信じることが主との結合を生む、こうして人間は主を見上げ、主も人間を見られる
3.生活に神を見上げることは悪を罪として避ける以外の何ものも意味しない
4.ヴァッスーラ
5.天使はすべてその顔を主に向け、主は天使の額を眺められ、天使は眼で主を見上げる
6.ああ、シラ、はかない命を惜しんで泣くな。心を高く上げ、真の正義をもって見なさい
7.天界のものを顧慮した時『まっすぐに歩む』、『上を』または『前を見る』と言われた
1.人間は自分自身によっては悪から逃れることは出来ず、ただ主によってのみ逃れることが出来るため、主を仰がねばならない
神の愛と知恵246
この霊的熱は悪を罪としてそこから逃れると同時に主を見上げることによってのみ得られる、なぜなら人間は悪にいる限り、また悪への愛にいるからである、それは彼は悪を渇望し、悪の愛と欲念とは霊的な愛と情愛とに反した愛に宿っているためであるが、こうした愛または欲念は悪を罪としてそこから逃れることによってのみ除かれることが出来るのであり、そして人間は自分自身によっては悪から逃れることは出来ず、ただ主によってのみ逃れることが出来るため、主を仰がねばならない。かくて彼は主により悪から逃れる時、悪の愛とその熱とは除かれ、それに代って善の愛とその熱とが入れられ、そのことにより高い度が開かれるのである、何故なら主は上から流れ入って、その度を開かれ、次いで愛、即ち、霊的熱を知恵または霊的光に連結され、その連結により人間は春の樹木のように霊的に茂り始めるからである。
2.善と真理は彼自身のものでないことを信じることが主との結合を生む、こうして人間は主を見上げ、主も人間を見られる
神の摂理92
ただ人間は自分自身では善を為さないし、真理も考えないし、主から発する力によって善を為し、真理を考えるのであり、それ故その為す善とその考える真理は彼自身のものでないことを人間は承認しなくてはならないことのみが異なっているのである。意志の中の多少の愛に動かされてこのことを、それが真であるため、信じることが結合を生むのである、なぜならこうして人間は主を見上げ、主も人間を見られるからである。
3.生活に神を見上げることは悪を罪として避ける以外の何ものも意味しない
神の摂理20
生活に神を顧ることは、この悪またはかの悪は神に対する悪であると考え、そうした理由からそこから遠ざかることを意味するにすぎない。
神の摂理93
善は凡て主から発していると信じる者とそれは自分自身から発していると信じる者との間にいかような相違があるかを私は霊界で見聞することが出来た。善は主から発すると信じる者は主を見上げ、善の歓喜と祝福とを受けている。しかし善は自分自身の中から発すると信じる者は自分自身を眺め、自分自身に功績を帰している。そして彼らは彼ら自身を眺めるため、彼ら自身の善の歓喜を認めることが出来るにすぎず、それは善の歓喜ではなくて、悪の歓喜である。なぜなら人間自身のものは悪であり、善として認められる悪の歓喜は地獄であるから。善を行い、それが自分の中に発していると信じる者は、死後凡ての善は主から発することを認めないならば、悪霊と交わり、遂には彼らと結合するが、その真理を受ける者は改良される。しかし日々の生活で神を見上げる者以外何人もこれを受け入れはしない。生活に神を見上げることは悪を罪として避ける以外の何ものも意味しない。
4.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P119
‘00・8・5
あなた自身を見て、そして教えてほしい、我がヴァッスーラ、人が変容したという印は何か?
たくさんの印があると思います。
たくさんあるというのは正しい、しかし中でも 一番崇高な印とは?
聖パウロによれば、それは その人の中にある 神への愛でしょうか、その愛は その人の中であなたご自身の絶え間ない愛を注がれ、霊魂を変容させて霊的な深遠へと進ませ、愛において霊魂が育つよう導きます。こうして霊魂は神格化され、主に与って神となります。
あなたの愛が 神格化させ 悪にそまった私たちの肖りを 神なるあなたの肖りへと 変容させるのです・・・
そう! 聖書では「あなたの視線を ヤハウェに据えなさい そうするなら顔は輝こう」とあるが それは、「ヤハウェの似姿に変容する」という意味であって、自己(*)を神に差し出すなら、この最も明らかな変容の印が現れる。 つづけて ほかの印も現れる。 歓び、平安、いや増す愛徳の印が こうして、霊魂は 愛徳を通して 三位一体の神の知識を得られる。 変容した霊魂は 神への愛と 神を知り理解する知識によって 内も外も輝く明かりのようになろう。
この世とその闇から開放されて 幸せな霊魂は 私のもとに飛んで来て、我がふところの中(*1)にとどまっている。 愛に燃え、我が甘美に酔わされ、この霊魂は どうしたら三位一体のうちに いっそう深く分け入れるかを 熱心に探し求めよう。 そしてこの上なく優美な花婿なる 私は 我が心の愛の炎に ますます引き寄せ 私どものうちに憩わせて 共に治められるよう その霊魂を私どものうちに浸す。
そこで 私が差し出すものを 拒める霊魂がいようか? かつて言ったが 裁きの日には 地上にいたときの愛の程度によって 誰もが量られる。 何か 言うことがあるか?
こう申し上げます:
「あなたの御恵みは なんと大きいことでしょう。
あなたは 畏れ敬う者のために 恵みをたくわえ
たよる者に 人びとの前で それを授けます。」 詩篇31・20
そして この世にいまだ執着する人たちには こう言おう、心から、私を選んで、和解するつもりなら、私を呼び求め 私のもとに来て 祈るときは、その声に耳を傾ける。 私を探し求めるなら、見いだそう。私があなたに自らを見つけさせる、そして、あなたと会話し あなたも私と会話する 永えの愛をもって これまでもあなたを愛し、今もなおあなたへの忠実なる愛を保っているがゆえ。
だから来なさい、来て 私からあなたを分け隔てているヴェールを はぎ取りなさい。 永遠のいのちをあなたに与える 聖なる者を観想しなさい。
*意志。 *1親密さをあらわす表現。
5.天使はすべてその顔を主に向け、主は天使の額を眺められ、天使は眼で主を見上げる
神の摂理29
かく記したのは、主の天使との結合と天使の主との外観上の相互的結合が如何にして行われるかを示すためである。なぜなら天使はすべてその顔を主に向け、主は天使の額を眺められ、天使は眼で主を見上げるからである。それは額は愛とその情愛に、眼は知恵とその認識に相応するからである。にも拘らず天使は自らその顔を主に向けるのでなく、主が彼らを御自身に向けさせられるのである。
6.ああ、シラ、はかない命を惜しんで泣くな。心を高く上げ、真の正義をもって見なさい
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P199
ああ、シラ、はかない命を惜しんで泣くな。心を高く上げ、真の正義をもって見なさい。世間は私への信仰を滅ぼす危険があるから、神はあなたの夫をその危険から救われたのです。あなたを愛してくださったために
7.天界のものを顧慮した時『まっすぐに歩む』、『上を』または『前を見る』と言われた
天界の秘義248
それで人間は天界のものを顧慮した時『まっすぐに歩む』、『上を』または『前を見る』と言われたが、形体的な地的なものを顧慮した時は、『かがんで地につく』、『下を』または『後ろを見る』と言われたのである。