主の全知

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

 

 

 

1.聖書

 

 

サムエル記前2・3

 

主は何事も知っておられる神

人の行いが正されずに済むであろうか。

 

 

 

詩篇33・13−15

 

主は天から見渡し

人の子らをひとりひとり御覧になり

御座を置かれた所から

地に住むすべての人に目を留められる。

人の心をすべて造られた主は

彼らの業をことごとく見分けられる。

 

 

 

詩篇37・18

 

無垢な人の生涯を

主は知っていてくださる。

彼らはとこしえに嗣業を持つであろう。

 

 

 

詩篇94・8−11

 

民の愚かな者よ、気づくがよい。

無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。

耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。

目を造った方に見えないとでもいうのか。

人間に知識を与え、国々を諭す方に

論じることができないとでもいうのか。

主は知っておられる、人間の計らいを

それがいかに空しいかを。

 

 

 

ヨハネ2・24,25

 

しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

 

 

 

ヨハネ6・64

 

「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。

 

 

 

ヨハネ18・4

 

 イエスは御自分の身に起ることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義226

 

9、10節「神エホバはその人に向って叫ばれ、かれに言われた、あなたは何処にいますか。かれは言った、わたしは庭園の中にあなたの御声を聞き、裸であったため、恐れて、身をかくしました、と。」『叫ぶこと』の、『庭園の声』の、かれらが『裸であるために恐れたこと』の、また『身を隠したこと』の意義は前に説明した。主は凡てのことをそれ以前に知ってはいられるが、先ず人間が何処にいるのか、何を行っているのかと尋ねられることが聖言では普通であるが、しかし尋ねる理由は人間が承認して告白するためである。

 

 

 

天界の秘義1701

 

「逃れた者が一人来て、ヘブル人アブラムに告げた」。これは主がその内的な人から認識されたことを意味していることは『ヘブル人アブラム』の意義から明白であって、それは内なる人に連結した内的な人であり、そのことはすぐ以下に説明されている。内意ではこれらの事柄が主について述べられていて、歴史的なものは表象的なものであるため、逃れた者が一人来て、告げることは主が認識されたということ以外には何ごとも意味していない。内的な人は外なる人の中に行われていることを丁度たれかがそれを告げてでもいるかのように認識するのである。主は起こりつつあることをことごとく認識されていたため、御自身に関連して起った各々の性質と源泉とを極めて明白に知られたのである、例えば悪の何ごとかが主の外なる人のいくたの情愛を占めつつあるなら、または誤謬の何ものかがそのいくたの思考を占めつつあるなら、主はその如何ようなものであるかを、またそれが何処から発しているかを、また如何ような悪霊らが悪と誤謬とを掻き立てつつあるかを、いかようにして彼らはそれらを掻き立てつつあるかを、といったことを知り給わないわけにはいかなかったのである、なぜならこうしたことは、その他無数のことは天使たちから隠れてはおらず、また天的な認識を持っている人間からも殆ど隠れてはおらず、ましてや主からは隠れはしないからである。

 

 

 

天界の秘義1931

 

「彼は言った、サライの女中、ハガルよ」。これは知らせることを意味していることは(記事の)連続から明白である、なぜならハガルは天使から恰も天使が知らされなくてはならないかのように話しかけられているからである。エホバは事の以前にすべての事を、単に行われていることのみでなく、原因と目的をも知られ、かくて最小のことも最も内なることも知られてはいるけれど、エホバが人間に尋ねられて、人間がそれに答えることは、聖言では普通のこととされている。しかし人間はそのことを[エホバはすべてのことを知られていることを]知っていないで、自分が誰一人見ていなときに秘かに行うことはたれからも決して知られる筈はない、ましてや自分が考えていることは知られる筈はないと信じているため、それで事柄はその人間の信念に従って起きるのである。しかしそれでも普通の霊たちでさえも人間が考えていることはその人間自身よりもさらに良く認めており、天使的な霊たちはその人間の思考のさらに内的なものを認めており、天使たちはそれよりもさらに内的なものさえも、すなわち、その人間にも殆ど知られていない原因と目的さえも認めているということは実際真のことである。私はこのことを多年に及んでいる多くのまた絶え間のない経験により知ることが出来たのである。霊たちと天使たちでさえこうしたことを認めているからには、ましてや無限な方であられ、すべての者に認識するその能力を与えられている主にあっては、またはエホバにあっては、何を認められないことがあろうか。

 

 

 

天界の秘義2693

 

「彼女に言った、ハガルよ、なぜあなたは苦しんでいますか」。これはその状態について認識することを意味していることは以下から明白である。すなわち、聖言の歴史的な部分における『言うこと』の意義は認識することであり―このことは前に説明したー『ハガルよ、なぜあなたは苦しんでいますか』の意義は、それが陥っていた状態であり、ここではそれは、たとえ彼女は尋ねられて、ハガルよ、なぜあなたは苦しんでいますかと言われているものの、主がその状態を完全に知っておられたことを意味している。文字の意義ではそれは主から尋ねられたことであるが、内意ではそれはあらゆる物の無限の認識[あらゆる物を無限に認識すること]である。わたしたちは聖言の中で人間がその状態について尋ねられていることをここかしこで読んでいるが、その理由は、人間が他の者は一人として自分の考えを知ってはいない、ましてや自分の情愛の状態を知ってはいないと信じているということである。さらに一つの理由は、人間が自分の感情を表現することができることから慰安を覚えることができ、それがしばしば救いとなるということである(1701、1931番を参照)。

 

 

 

天界の秘義4358

 

「言った、これらはあなたのたれですか」。これは承認を意味していることは以下の事実から認めることができよう、すなわち、文字の意義ではにおける疑問はその最高の意義では疑問ではないのである、なぜなら主は―この意義の中では主がとり扱われたもうているが―凡ゆる物を全般的にも個別的にも知っておられるため、人間に問う必要を持たれないからである。ここから『これらの者はあなたのたれですか』というこの疑問は承認を意味している。なぜならエソウにより主が神的な善の自然的なものの方面で表象されたもうており、神的な善は、その善がそれ自身に連結させる諸真理を直ぐにも承認するからである。さらに善はすべてこのことを為すのである、なぜなら善はその善が真理と呼ぶものなしには存在を持つことができないのであり、真理もまたその真理が善と呼ぶものなしには存在を持つことはできないからである。

 

 

 

天界の秘義5477[2]

 

このことから光そのものである主は人間の思考と意志の中に在るところの、いな、全自然界の中に在るところの一切の物を見られており、いかような物も一つとして主からかくれていないことが明白である。

 

 

 

天界の秘義6851

 

「エホバは言われた、わたしはわたしの民の苦悩を見、また見」。これは霊的な教会に属している者たちに対し、誤謬に取り憑かれて悩まされた後に示される慈悲を意味していることは以下から明白である、即ち、聖言の歴史的なものにおける『言うこと』の意義は認識であるが(そのことについては前に再三述べた)、しかしそれがエホバ、または主について言われているときは、認識を意味しないで、全知を意味しており―なぜなら主は一切の物を永遠から知っておられるからである―『わたしは見また見』の意義は、それがエホバ、または主について言われる時、慈悲であり―なぜなら主はたれかが悲惨なまたは苦しんでいる状態にあるのを見られる時は、その者に慈悲を持たれるからである(主は実に凡ゆる者を見られ、かくて凡ゆる者に慈悲を抱かれているが、しかし主の慈悲を受ける者、即ち、善の中にいる者以外の者については慈悲を抱かれるとは言われないのである)―『苦悩』の意義は取り憑かれて悩まされることであり(6663番)、ここでは誤謬に取り憑かれて悩まされることであり―なぜなら誤った記憶知を意味しているエジプト人により悩まされたからである(2928番)。天的な教会に属している者たちは聖言では『国民』と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義6853

 

「私は彼らの悲しみを知ったからである」。 これは、いかほど彼らが誤謬に浸されるかについて先見されたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『知ること』の意義は、それが主について言われる時は、先見であり(『知ること』は先見を意味していることは、主は永遠から一切の物を知っておられるためである)、

 

 

 

天界の秘義10431

 

同様に以下の記事に『エホバは悔いられる』と言われているが、事実はエホバは決して悔いられはしないのである。なぜならエホバは凡ゆる事柄を永遠から先見されているからであり、ここから聖言を読んでいるときその文字の意義以上のことを考えない者らは、かくてかれらに実相は真にいかようなものであるかを教えている聖言から発した教義なしに聖言を読む者らは、いかに多くの過誤に陥るかを認めることができよう。なぜなら教義に従って聖言を読む者たちは、エホバは慈悲そのもの、善そのものであられ、無限な慈悲と無限な善とについて、それは怒りにもえて、やきつくしてしまうとは到底言われることができないことを知っているからである。それでこの教義からかれらはそれが人間に示されている外観[現象]に従ってそのように言われていることを知るのである。(怒りと悪とは人間から発し、主から発してはいないものの、それらが主に帰せられていることについては、9306番に示されたところを参照されたい。『怒り』は、主について言われているときは、人間が主から離れ去ることを意味していることについては、5034、5798、8483、8875番を参照されたい。)

 

 

 

天界の秘義6806

 

「神は知られた」(出エジプト2・25)。

 

これは主が仁慈を与えられたことを意味していることは、『知ること』の意義から明白であり、それは神、すなわち主について述べられているときは、仁慈を与えることである、なぜなら主を人間に連結させ、また主を人間のもとに現存させ、従って、主に人間を知らさせるものは仁慈であるからである。主は実に宇宙の凡てのものを知られてはいるが、しかし愛と仁慈との善の中にいる者をのぞいては、父がその息子を知るようには知られはしないのである。

 

 

 

天界の秘義6806[]

 

『知ること』は連結を意味し、人間は主と連結しているかぎり、主から『知られている』と言われている。主はまた連結していない者らを知られ、いな、そうした各々の人間の中の極微な事柄そのものさえも知られているが(ヨハネ2・24,25)、しかしこれらの人間は悪の中にいるため、一種異なった種類の臨在に接しており、それはいわば主はその場におられはしないといったものであり、主はその場におられはしないことはないけれど、悪の中にいるその人間と霊とがその場にいないのであり、そのとき主はかれらを『知らない』と言われるのである。こうした事情に似たことが天使たちや霊たちの間に現れている、すなわち、生命の状態の方面で似ている者たちは互いに他の近くに現れ、かくて相互に他を知り合ってはいるが、しかし生命の状態の方面で似ていない者たちは遠く離れているように互いに相手に見え、同じく相互に他を知りもしていないのである。約言すると、他生では状態が類似していないことによってその場にいないように見え、また知られもしないのである。

 

 

 

天界の秘義1054

 

「そしてわたしはそれを見るであろう」(創世記9・16)。

 

これがかれは再生することができるようなものであることを意味することは、たれかを『見る』ことが主について述べられるときは、それはその人間の性質を知ることを意味しているという事実から明白である。

 

なぜなら主は凡ての者を永遠から知られていて、たれかがいかようなものであるかを見られる必要はないからである。たれかが再生することができるようなものであるときは、主はその者を『見られる』と言われ、また主は『かれの上にその御顔をあげられる』と主について言われている。しかしその者が再生することができないとき、主はかれを見られる、またはかれの上にその御顔をあげられるとは言われないで、主はその者から『その眼を』または『その御顔』を反らされると言われているが、しかし、それを反らすものは主ではなくて、人間なのである。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P140

 

神はすべてを見ておられる。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P375

 

「ああ、あわれみの神よ!あなたはそれもご存知ですか?!」と唖然として彼は言う。

「ユダは私が知らないと思っていますが、私はすべてを知っています。(後略)」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P17

 

主がラザロに:

 

“イエズスは死を意識して迎え、拷問やいろいろな人々なり自分の運命について知らなかったことは一つとしてなかった、この懊悩を皆が知るように”自分自身をまだ救えたときにもそれをしなかったことを皆が知るように。なぜなら、人間への私の限りない愛は、皆のために生贄を完成させる望みだけに燃えているからです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P159

 

クィンティリアーノ:「でも、聞いたところによると、先生はパレスティナから外へ出たことがないということですが」

クィンティリアーノは不審げな面持ちである。

 

主:「私は、ローマとかアテネへ行くために、この国を出たことはありません。でも、ギリシャやローマ建築を知らないわけではなく、パルテノンを造った人間の才能には、私が介在しています。というのは、命および命のほとばしりのあるところに、私はいつもいるのです。一人の知恵者が考えるところ、一人の彫刻家が彫刻するところ、一人の詩人がうたうところ、一人の母がゆりかごのそばで子守り歌を歌っているところ、一人の人間が畝にしゃがんで畑を耕しているところ、一人の医者が様々な病気と闘っているところ、つまり、一匹の動物が生き、一本の木が成育するところ、そこに、私は御父とともにいます。地鳴りや雷鳴、星のきらめきや潮の干満、鷲の飛行やブーンという蚊の羽音にも、私はいとも高き創造主とともにいます」

 

「だったら・・・あなたは・・・あなたは何でも、人間の業と考えさえも知っているのですか」とまたクィンティリアーノが問いかける。

「知っています」

 

 

 

 

4.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・3・7

 

主よ、「私にみ旨を行うことをお教え下さい。」(詩篇142・10)み前にあって応しく謙遜に歩むことをお教え下さい。主は私の知恵であって、私を真実に知り、この世の創られない前、また私がこの世に生まれない前、すでに私を知っておいでになったからです。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・24・1

 

見よ、わたしはどの人をも知り、天下に行われることをすべて見ている。またおのおのの人がどういうふうであるか、何を考えているか、何を欲(のぞ)んでいるか、またどういう目的を抱いているか、ということも知っている。