主の名によって
1.名
2.主の名
3.イエス・キリスト
4.霊を天界に向かって形作り、構成することのできる
唯一の手段は主を信仰と愛との中に受け入れること
5.聖言では、主イエス・キリストの名は彼を認め、彼の誡命に従う生活を意味する
1.名
天界の秘義6674
名の意義は性質であり(144,145、1896、2009)、また状態である(1946、2642、3422、4298)。
なぜなら聖言の名はすべて事物を意味しており、とり扱われている主題に属している凡ゆるものの全総合体を包含し、かくてその性質と状態とを包含しており
2.主の名
黙示録講解1098[2]
神はいかような方であるか、ということから引き出されてくるところの、神は存在されるという思いは、聖言においては『神の名』により意味されているものである(前の102、135、148、695ロ、959番を参照)。
天界の秘義2009[11]
「神の御名」または「主の御名」は愛と仁慈とにかかわる信仰の教義のすべてのものであり、そのことが「かれの御名を信じること」により意味されていることは同じ福音書の中の以下の御言葉から明白である―
かれを受け入れた者にはことごとく、かれの御名を信じる者たちには、かれは神の子となる力を与えられた(ヨハネ1・12)。
もし何ごとでもあなたらがわたしの名の中に父に求めるならば、わたしはそれを為しましょう。あなたらはもしわたしを愛するならば、わたしの戒めを守りなさい(ヨハネ14・13−15)。
何であれあなたがわたしの名の中に父に求めるならば、父はあなたらに与えられます。これらのことをわたしがあなたらに命じるのは、あなたらが互いに愛し合うためである(ヨハネ15・16、17)。
マタイ伝には―
二人または三人の者がわたしの名の中に共に集まるならば、わたしはその者たちの真中にいるのである(マタイ18・20)。
「主の御名の中に集まっている者たち」によりここでは愛と仁慈とにかかわる信仰の教義の中にいる者たちが意味され、かくて愛と仁慈の中にいる者たちが意味されている。さらに―
あなたらはわたしの名のために凡ての国民からきらわれるでしょう(マタイ10・22、4・9、10、マルコ13・10)。
ここには「わたしの名のために」は、主の教義のために、を明らかに意味している。
天界の秘義2009[12]
名それ自身は何事も遂行はしないが、あらゆることがその名に包含されているものにより、すなわち、仁慈と信仰とのあらゆるものにより遂行されることはマタイ伝の以下の言葉から明白である―
わたしらはあなたの御名によって予言し、あなたの御名によって魔鬼を追い出し、あなたの御名の中にあって、多くの力ある業を行ったではありませんか。しかしそのときわたしは彼らに告白しよう。わたしは決してあなたらを知らなかった。不法を行う者よ、わたしから離れて去りなさい(マタイ7・22、23)。
このことから以下のことが明白である。すなわち、ユダヤ人がエホバの御名の中に礼拝をおいたように、また基督教徒が主の御名の中に礼拝を置いているように、名に中に礼拝を置いている者らはそうしたことをしているという理由からそれだけ価値があるのではない。なぜなら名には何の益もないからである。しかし、実際益を与えるものはかれらが主の命じられたような性格のものになるということである。なぜならそれが「主の御名を信じる」ことであるからである。
さらに、主の御名以外の名には救いは全く無いと言われていることは、それ以外のいかような教義の中にも、すなわち、信仰の真の教義であるところの相互愛以外のものの中には、引いては、主以外の者の中には救いは全くないということを意味しているのである。なぜなら愛のすべてとそこから派生してくる信仰とは主のみから発しているからである。
天界の秘義6674[2]
名前がとり扱われている主題の性質と状態とを意味していることを知らない者は、名前が言われている所には、ただ名前のみが意味されており、それで主が主の「名」を話されるときは、それはただ名にすぎないと信じることはできるが、しかしそれは礼拝の性質であり、すなわち、主を礼拝する手段である信仰と仁慈の凡ゆるものである。例えば以下の記事には―
ニ、三人の者がわたしの名の中に共に集まっている所には、わたしもその者たちの真中にいるのである(マタイ18・20)。
ここでは「名」が意味されてはいないで、信仰と仁慈から発した礼拝が意味されているのである。
受け入れた者には、(すなわち)かれの御名を信じる者たちには、神の子となる力をかれは与えられた(ヨハネ1・12)。
ここにもまた「名」により信仰と仁慈とが意味され、その信仰と仁慈により主は礼拝されたもうのである。
これらの事をしるしたのは、あなたらがイエスはキリスト、神の子であることを信じ、また信じてその御名において生命を得るためである(ヨハネ20・31)。
ここでも意味は同一である。
天界の秘義6674[3]
さらに―
もしあなたたちがわたしの名において何ごとでも求めるなら、わたしはそれを為しましょう(ヨハネ14・13,14)。
何であれ、もしあなたらがわたしの名において父に求めるなら、父はそれをあなたらに与えられるでしょう(ヨハネ15・16、18・23,24)。
ここではかれらは主の御名において父に求めねばならないことが意味されているのではなく、かれらが主御自身に求めなくてはならないことが意味されているのである。なぜなら、教会の中にもまた知られているように、主の神的な人間的なもの[主の神的人間性]を通さなくては、「父」である神的善[神の善]にいたる道は開かれていないからである(3704番を参照)。
それで主御自身に求めることは信仰の諸真理に従って求めることであり、主御自身がヨハネ伝の前の記事で言われているように、これらの真理に従って求められるものはことごとくかなえられるのである―
もしあなたたちが何ごとでもわたしの名において求めるなら、わたしはそれを為しましょう(ヨハネ14・14)。
このことはさらに、主はエホバの「御名」であられるという事実から認められることができよう。そのことについてはモーセの書に以下のように記されているのである―
わたしはあなたの前に天使を一人つかわして、あなたを道で守らせよう。かれの顔に注意し、その声を聞き、かれを怒らせてはならない。わたしの名はかれの中に在るからである(出エジプト23・20,21)。
天界の秘義6674[4]
ヨハネ伝には―
父よ、あなたの御名を栄化してください[崇めてください]。天から声がきこえて、言った、わたしはそれを栄化した[崇めた]が、さらに栄化しよう[崇めよう](ヨハネ12・28)。
わたしはあなたが世からわたしに与えられた人たちにあなたの御名をあらわしました。わたしはかれらにあなたの御名を知らせましたが、また知らせましょう。あなたがわたしを愛しられたその愛がかれらの中に在って、わたしもかれらの中にいるためです(ヨハネ17・6,26)。
これらの記事から、主の神的な人間性[神的な人間的なもの、神の人間性]の方面がエホバの「名」であり、またはエホバの全性質であることが明らかであり、かくて神礼拝はことごとく神的な人間性から発しており、礼拝すべきものはこの神的な人間性である。なぜなら神的なものそれ自体はこのようにして拝されて、その神的なものは他のいかような方法によっても考えられることはできないし、もし考えられることができないなら、それと連結することもできないからである。
天界の秘義6674[5]
主の「御名」は信仰と愛との凡ゆるものであって、それによって主を拝さねばならないことは以下の記事からさらに明白である―
あなたたちはわたしの名のために凡ての者から憎まれるでしょう(マタイ10・22)。
わたしの名のために、家、または兄弟を、または姉妹を、または父を、または母を、または妻を、または子供を、または畠を棄てた者は百倍のものを受け入れるであろう(またい19・29)。
かれらは叫んだ。ダビデの子にホサナ、祝福された方よ、主の御名において来られた方よ(マタイ21・9)。
まことにわたしはあなた達に言います。祝福された方よ、主の御名において来られる者よ、とあなたたちが言う時が来るまでは、あなたらはわたしを見ないでしょう(ルカ13・35)。
たれであれ、あなたたちに、あなたたちはキリストにぞくしているという理由から、わたしの名において一杯の水を与えて飲ませる者は、まことにあなたらに言います。その者は報いを失わないでしょう(マルコ9・41)。
七十人は喜んで帰って、言った。主よ、悪鬼でさえあなたの名によりわたしたちに従います。イエスはかれらに言われた。霊たちがあなたたちに従うことを喜ばず、むしろあなたたちの名が天に記されたことを喜びなさい(ルカ10・17、20)。
「天に記された名」は名ではなくて、かれらの信仰と仁慈との性質である。
天界の秘義6674[5]
以下の記事の「生命の書に記された名」も同様である―
あなたはサルデスにすら自分の着物を汚さなかったニ、三の名を持っている。勝つ者は白い着物を着せられ、またわたしはかれの名を生命の書から消し去りはしないで、その名を父とその御使いたち[天使たち]との前に明らかにしましょう(黙示録3・4,5)。
戸から入る者は羊の羊飼いである。かれは自分の羊の名を呼ぶ(ヨハネ10・2,3)。
エホバはモーセに言われた。わたしはあなたの名を知っている(出エジプト33・12,17)。
多くの者はかれの為されたそのしるしを見たとき、その名を信じた(ヨハネ2・23)。
かれを信じる者は審かれない。しかし信じない者はすでに審かれてる。かれは神の独り児の御名を信じなかったためである(ヨハネ3・18)。
かれらは西からエホバの御名を恐れるであろう(イザヤ59・19)。
凡ての民はおのおのその神の名によって歩んでいる。わたしたちはわたしたちの神エホバの御名によって歩もう(ミカ4・5)。
天界の秘義9310
「わたしの名において父に求めること」は主御自身がその同じ福音書の中で教えておられるように、主に求めることを意味しているのである―
何であれ、あなたらがわたしの名において求めるものは、わたしがかなえましょう。もしあなたらがわたしの名において何ごとかを求めるなら、わたしはそれをかなえましょう(ヨハネ14・13、14)。
「主の名において求めること」はたれ一人主を通さないかぎり父のもとへは来ないため(6節)、また(前の9303、9306番に示したように)主はその神的な人間的なものの方面では[主の神的な人間的なものは]見える形をとられたエホバまたは父であるため、主に求めることを意味しているのである。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/静思社/P20
天界へ到達する道は主へ到達する道である。なぜなら主は以下のように言われているからである―
わたしは道であり、真理であり、生命である。わたしによらなくては、たれ一人父の御許へは来ない(ヨハネ14・6)。
以下のように言われている所にも同じことが同様に意味されている―
あなたたちはわたしの名において父に求めなくてはならない(ヨハネ15・16、14・13)。
そして主は今から後はあなたらは父に祈ってはならない、わたしに祈らなくてはならない、と言われ、また「わたしがあなたたちに与えよう」と言われているのである。(このことが言われている所を見つけ出して、それを説明されるように。[ヨハネ16・26、14・14、マタイ11・28、黙示録2・10、17、23、28、21・6])。
御父は御子のために(わたしたちを)愛されるという信頼から発しているものが救う信仰である、と言われてはいるが、しかしそのことによってはたれ一人救われはしないのである。父は決してあなたたちの祈りを聞かれはしないのであって、主が聞かれるのであり、かの信仰によってはたれ一人救われはしないのである。かれらは主を素通りして、父に祈りはするが、そのことは主の戒めに全く反しており、さらに、たれ一人父を見てはおらず、その御声を聞いてもいないのである。
天と地とを治める主権は主に属している(ダニエル7・14、黙示録11・15)。
主の人間的なものは主の神的なものと等しいことはヨハネ伝に見ることができよう―
ユダヤ人らはイエスを殺そうと求めた。イエスが神はわたしの父であると言われて、御自身を神と等しい者とされたためである。イエスは言われている。まことに、まことにわたしはあなたらに言う、何であれ父が行われたことを、そのことをまた子も同じように行うのである。父が死んだ者をよみがえらせ、生かされるように、まさにそのように子もその欲する者を生かすのである(ヨハネ5・18から終わり迄)。
3.イエス・キリスト
天界の秘義3005
「イエス」は内意では神的善であり、「キリスト」は神的真理であることは聖言の多くのものから認めることができよう。「イエス」が神的善であることは、「イエス」は「安全」、「救い」、「救い主」を意味しているという事実から発しており、それがこれらのものを意味しているため、神的善を意味している。なぜなら救いはことごとく主の愛と慈悲とにぞくしている神的善から発し、かくてそれはその善を受容することにより遂行されるからである。
「キリスト」が神的真理であることは、その名は「メシヤ」と「油注がれた者」と「王」を意味しているという事実から発しており、これらの名が神的真理を意味していることは以下の記事から明白になるであろう。
4.霊を天界に向かって形作り、構成することのできる唯一の手段は主を信仰と愛との中に受け入れること
スウェーデンボルグ/黙示録講解86
さらにこうした理由から、悪を考え、欲している人間は事実[現実に]地獄にいるのであり、世に生きている間に現実にいる所へ死後その者はやってくるのである。人間の霊はその者が考え、欲している事柄から構成されているため、人間は他のいかような所へも来ることはできないのである。
それで、かれは悪を考え、欲しているとき、その人間全体は悪から形作られ、構成され、それでかれは形ではかれ自身の悪である[それでかれはかれ自身の悪の形となっている]。このことから奈落の霊らは全くその者ら自身の悪の像となり、怪物となり、その悪の種類に応じて、見る者を恐怖に陥れている。さらに、霊を天界に向かって形作り、構成することのできる唯一の手段は主を信仰と愛との中に受け入れることである。なぜなら主のみが、人間のもとに信仰と愛との中に現存されることにより、いくたの悪を遠ざけられ、人間を、天使であるところの天界の像[映像]へ形作られるからである。
5.聖言では、主イエス・キリストの名は彼を認め、彼の誡命に従う生活を意味する
真の基督教682
聖言では、主イエス・キリストの名は彼を認め、彼の誡命に従う生活を意味する。「汝神の名を妄りに口にあぐべからず」との第二の誡命の説明を参照されよ(297番以下)。また以下の記事を参照されよ。イエスは語り給ふた、「汝らは我が名のために凡ての人に憎まれん」(マタイ10・12、24・9、10)「二三人我が名によりて集まるところには、我もその中に在るなり」(マタイ18・20)「彼を受けし者、すなわちその名を信ぜし者には、神の子となる権を与え給へり」(ヨハネ1・12)「多くの人々彼の名を信じたり」(2・23)「信ぜぬ者は既に審かれたり、神の独子の名を信ぜざりし故なり」(3・18)。「信じて御名により生命を得ん」(20・31)。「而して汝は我が名の為に労し心ひるまざりき」(黙示録2・3)その他。
これらの記事の主の名は、主を贖罪者、救い主として認め、彼に服従し、最後に彼を信ずることを意味する。何故なら、洗礼に於いて幼児は主をみとめ、礼拝するにいたったことを示す十字架の印を、その額と胸とに受けるからである。人間の名もまたその性格を示している。霊界では各人はその性格に従って名を与えられる。それ故、基督教徒の名は基督に対する信仰と隣人に対する仁慈を意味している。このことは黙示録の名によって意味されている。人の子は語り給うた、「サルデスに己が衣を汚さぬ者数名あり、彼らは白き衣を着て我とともに歩まん、かくするに相応しき者なればなり」(3・4)。白い衣を纏うて人の子を共に歩むことは、主に従いその聖言の諸々の真理に従って生くることを意味する。これと同様の事がヨハネ伝の主の名によって意味されている、「イエス言ひ給ふ、羊はその声を聞き、彼は己の羊の名を呼びて、索きいだす。彼は彼らに先だちゆき、羊その声を知るによりて従ふなり。他の者には従はず、他の者どもの声を知らぬ故なり(10・3−5)。「名によりて」は基督教徒としての彼らの性格によってを意味し、彼に従うことは彼の声を聞くこと、即ち主の命令に従うことを意味する。洗礼に於いて凡ゆる者はこの名を印として受けるのである。