主の身体
天界の秘義6135[3]
純粋な意義では『身体』は愛の善であることは、天使たちから非常に明白である、なぜならかれらはその姿を現わすと、愛以外の何ものでもないと信じられるほどにも、愛がかれらから注ぎ出され、しかもそれがかれらの全身から注ぎ出されるのであり、その身体もまたその愛から発する光のために光り輝いて見えるのである。なぜなら愛の善はそれ自身から光を放出する焔であり、光はそこから派生している信仰の真理であるからである。これが天界の天使たちの性格であるからには、主御自身は―この主から天使たちは愛の一切を得ており、その神的愛は太陽として現れて、そこから天界全体はその熱を得ており、その中にいる凡ての者はその天界の熱、すなわち、その愛を得、かくてその生命を得ているのであるが、その主御自身は―いかようなものであってはならないのであろうか。そのように現れているものは主の神的人間性であり、そこからこれらの凡ての物が存在しているのである。このことから主の『身体』により意味されていることが、すなわち、神的愛が意味されており、それは主の『肉』によっても同様に意味されていることが明白である(3813番を参照)。さらに主の身体そのものは、栄化されたもうたときは、すなわち、神的なものとされたもうたときは、それ以外のものではないのである。それ以外の何を私たちは無限なる神的なものについて考えねばならないであろうか。
天界の秘義6135[4]
この凡てから聖さんの『身体』により全人類に対する主の神的愛以外には何ものも意味されていないことを知ることができよう、それについては福音書に以下のように記されているのである―
イエスはパンを取られ、祝福され、裂いて弟子たちに与えられ、言われた、取って、食べなさい、これはわたしの身体である(マタイ26・26、マルコ14・22、ルカ22・19)。
『これはわたしの身体である』と、主がパンについて言われたのは、『パン』によってもまた神的愛が意味されているからである(276、680、2165、2177、3464、3478、3735、4735、5915番)。
天界の秘義6135[5]
神的愛[神の愛]はヨハネ伝の主の『身体』によってもまた意味されているのである―
イエスは言われた、この神殿を破壊せよ、わたしは三日でそれを起そう。しかしかれはその身体の神殿について話されたのである(ヨハネ2・19、21)。
『その身体の神殿』は神的善から発した神的真理である(『神殿』は主の神的真理であることについては、前の3720番を参照)。そして主の『身体』はその最高の意味では主の神的愛の神的善であるため、それで天界にいる者たちは凡て『主の身体の中にいる』と言われているのである。