主は真の預言者

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P160

 

皆に言う。主を畏れよ、彼の声を聞ける時が来たからである。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P245

 

それなのに偽預言者奴、わざと私が何者かと聞いたのか。確信のために知りたいと言っていたが、今度はヨハネが最後の預言者だったと言うのか?これは二重のうそだ。うその一つは真の預言者のことばは拒んだことがないと言うのと、もう一つのうそは、ヨハネが最後の預言者だと言うことだ。預言者を信じていると言いながら、私が真の預言者であることさえも否定する。

 

 

マタイ13・57−58

 

このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

 

 

ルカ4・24−26

 

そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。

 

 

天界の秘義9198[2]

 

『予言者は一人としてその者自身の国では受け入れられはしない』は、主と主から発した神的な真理とは教会の外側よりも教会の内側ではさらに心の中に受け入れられはしないし、また愛されもしないことを意味しているのである。主は当時そのもとに教会が在ったユダヤ人に話されたが、主は教会の外側の諸民族よりはユダヤ人によってはさらに受け入れたれたまわなかったことは知られている。そのことは現今でも主に因んでキリスト教会と呼ばれている教会の中でも同じである。この教会の中では主は実際教義の中では受け入れられてはいるが、しかしたんに僅かな者によってしか受け入れられてはいないし、心で承認されてもいないのであり、愛の情愛をもって主を受け入れる者はさらに僅かしかいないのである。教会外の回心した異邦人のもとではそうではない。これらの者は主を唯一の神として拝し、崇めており、かれらは自分たちは主が人間の形をとって現れたもうたゆえ、主を唯一の神として承認していると、口で言いもし、心で考えもしているのである(5256番)。教会の中では反対であり、そこでは主は人間として生まれたもうたため、主が心から神として承認されることは困難である。これらの者は、主の父はエホバであられて、人間ではあられないことを知ってはいるものの、主の人間的なものをかれら自身の人間的なものにしているのである。この凡てから『予言者は一人としてその者自身の国では受け入れられはしない』によりその内意で意味されていることが明白である。『予言者』はこの意義では神的真理の方面の、引いては教会の教義の方面の主を意味しているのである。(『予言者』は教える者を意味し、抽象的な意義では教義を意味し、主について述べられているときは、聖言の神的真理を意味していることについては、前の9188番を参照されたい)。