主は迎えに来られる

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P98

‘92・7・8

 

私は一歩ずつあなたに教えている、教育の師。 我が心に投げ入れようと 少しずつ世間から引き離してきた。私はあなたの知識と能力をこえるものごとを 明かしていった。 信じなさい、我が甘美な教え子よ、私イエスは あなたを愛している。 私の平安を受けなさい。 ともだって働く。 私とあなたで 我がメッセージをひろめよう。 あといくつかの国々に遣わす、 そしてあなたが使命を果し終えたなら 私のもとに連れ戻そう。 私、自身が、あなたを迎えに来る。

 

 

マリア・ワルトルタ29・10/天使館1巻P240

 

わたしは、神が私に知らせようとなさったことのみを一途に知ろうとし、自分自身に、あるいは神に対して、自分に言われたこと以外何一つ尋ねず、暴飲暴食、知識欲、所有欲に打ち勝ちました。何やかやと詮索せずに、わたしは信じました。わたしが快楽の暴飲暴食に打ち勝ったのは、味覚に耽溺することを一切拒否したからです。わたしは自分の肉を足の下に置きました。サタンの道具である肉を、天に上る階段とするために、わたしはサタン諸共踵で踏みつけました。 天! それはわたしの目的です。神が在したのはあそこです。わたしの唯一の渇望です。食い意地ではなく、神に祝福される必然の飢えであり、彼はわたしたちが彼に飢え渇くことを望んでおられます。

 

色欲にわたしは打ち勝ちました。色欲は大食に至る貪婪です。抑制されない悪癖は、より大きな悪癖に導くからです。エバの貪欲は、すでにそれだけでも咎められるべきですが、さらに彼女を色欲へと導きした。一人で満ち足りるだけでは済まなくなりました。自分の犯罪を、計算された強度にまで押し進めようとし、伴侶の色欲の師となりました。わたしは状況を逆転させ、下降する変わりに常に上昇しました。わたしの連れ合いである誠実な男を、下降させる代わりに常に高みへと引き上げ、彼を天使にしました。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P390

 

主:「小さなヨハネ(ワルトルタのこと)、いつもあなたの手を私の手に委ねて歩きなさい。そうすれば、安心して真っすぐ御国に至るだろう。私は、あなたに、“入りなさい”ではなく、“いらっしゃい”と言い、私の腕に抱き締め、私の愛があなたのために住まいを準備したところへと連れて行く。

平和に行きなさい。あなたを祝福する」

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」/天使館/P52

‘44年9月12日

 

 厳しい書取りだ。わたしの小さなヨハネのことを思うと、わたしの胸も痛む。しかしわたしは愛撫で勇気づける。その愛撫とは、すべての人が貴女を見捨てたとしても、わたしは貴女のそばにとどまるということだ。すべての人が貴女を忘れ去っても、わたしは貴女を憶えている。すべての人が貴女を憎むとしても、わたしは貴女を愛してやまないだろう。必要とあれば精神的にはもちろん物質的にも、体力を与えることによって、どれほどわたしが貴女を助けるかを見ただろう?貴女はわたしの手のなかの、愛すべき道具なのだ。恐れてはならない。

 

 貴女の使命のうちで、使命のために生きるように。レンズに目を凝らしている間は素晴らしい風景を見せるが、レンズから目を離せば、黒い箱にすぎない万華鏡をもらった子供たちのようでありなさい。貴女は、わたしと貴女の使命に目を凝らしなさい。現世は貴女の周りにある。周りにあるべきだ。だが貴女の内部にあってはならない。内部にあるのは、わたしの世界だ。無知で盲目なこの哀れな世に、わたしの世界から貴女にもたらされる教えと光を与えなさい。貴女の働いている周りにどれほど天が現前しているか、もし貴女に見ることが出来るならば!・・・

 

 ああ!貴女が哀れな世界から、そうと気づきさえもせずに、わたしの世界に足を踏み入れ、一つのヴィジョンから現実へと移行し、ちょうど母親を夢に見、自分を抱き締める母親と共に目覚める赤ん坊のように、貴女がいつまでもわたしの世界の内にあることに気づく時、貴女はどれほど幸せであろうか。わたしは貴女に対してこのようにするつもりだ。

 善良で、忍耐づよく、情け深くあるように。そして恐れてはいけない。わたしは貴女にわたしの平和を与える。きょう、マリアの御名の祝日に、わたしは貴女に溢れるほどの平和を与える。そしてそれがわたしの小さなヨハネへの恵みの賜物であるように。

 

 

マリア・ワルトルタ/『イエズス・たそがれの日々』/P7

 

おまえの苦労は終わった。今は愛と報いを味わうがよい。私の疲れを知らない声、おまえに平和と祝福あれ。ありがとう。おまえのイエズスが言う。『私は何時までも一緒にいよう。愛している人々とともにいることは私の喜びだからである。』