主エホビ

 

 

 

天界の秘義1793

 

 『主エホビ』は内的な人に関連しての内なる人であることは、主の内なる人について言われたことから明白である、すなわち、主はエホバ御自身からみごもられたもうたのであり、主はエホバの独り児であられ、エホバに主の人間的なものが、主が試練のいくたの争闘によりその母の人間的なものを、すなわち、母から取得されたものを清められた後で、結合されるようになったということから明白である。『主エホビ』という名称は聖言に極めてしばしば記されており、実に、エホバは『主』と呼ばれている度に、『主エホバ』とは呼ばれないで『主エホビ』と呼ばれており、しかもそれは特に試練が取り扱われているところに見られるのである。

 

[2]たとえばイザヤ書には―

 

  見よ、主エホビは力をもって来られる、その腕はかれのために治めるであろう、見よ、その報いはかれとともに在り、その業はかれの前に在る。かれはその羊の群を羊飼いのように養われるであろう、かれは子羊をその腕の中に集め、胸に抱いて携えられ、乳をのませる者たちを導かれるであろう(イザヤ40・10,11)。

 

 ここに『主エホビは力をもって来られる』はいくたの試練の争闘における主の勝利に関わっており、『その腕は主のために治めるであろう』はそれは主御自身の力から発していることを意味している。本章の一節に記されている報いとは何であるかはここに言明されており、すなわち、それは全人類の救いであり、すなわち、『主は羊飼いのようにその羊の群を養われ、その腕に子羊を集められ、それらを胸の中に抱いて携えられ、乳を飲ませる者たちを導かれる』ことであって、そのすべてのものは最も内なる、または神的な愛にかかわるものである。

 

[3]さらに同じ予言者の書の中には―

 

  主エホビはわたしの目を開かれた、わたしはそむかなかった、わたしは顔をそむけて後に退かなかった。わたしは打つ者にわたしの身体を与え、髭をむしりとる者らに頬を与えた、わたしは恥辱と唾とをさけるためにわたしの顔をかくしはしなかった、主エホビはわたしを助けられるであろう、見よ、主エホビはわたしを助けられるであろう(イザヤ50・5−7,9)。

 

 ここには試練が明らかにとり扱われている。さらに他の記事がある。