シバ

 

 

 

 

天界の秘義1171

 

 『ラーマの息子たち』により同じく内なる礼拝を持ってはいなかったが、信仰のいくたの知識を持ち、それを持つことから宗教を成立させた者らが意味されていること、『シバ』と『デダン』とはそうした知識を持ち、それを持つことから宗教を成立させた者らが意味されていること、『シバ』と『デダン』とはそうした知識を持っていた国民であること、かれらはその内意ではその知識そのものを意味していることは予言者の書の以下の記事から明白である。セバとシバとラーマについては以下の記事から明白であり、ダビデの書には―

 

 タルシシとその島々との王たちは捧げ物をたずさえてくるであろう、シバとセバとの王たちは贈り物をささげるであろう、まことに凡ての王はかれの御前に身をかがめるであろう(詩篇72・10、11)

 

 これは主とその王国と天的な教会について言われている。たれでもここに『捧げ物』と『贈り物』とにより礼拝が意味されていることを認めることができようが、しかしこれらの礼拝はいかようなものであったか、またいかような性質を持っていたかは、『タルシシとその島々』と『シバ』と『セバ』とにより意味されていることが理解されない限り知られることはできない。『タルシシとその島々』により内なる礼拝に相応した外なる礼拝が意味されていることはすでに示されたところである。このことから『シバとセバ』により内なる礼拝が意味されており、すなわち、『シバ』により礼拝の天的な事柄が、『セバ』により礼拝の霊的な事柄が意味されていることが生まれている。

 

[2]イザヤ書には―

 

 わたしはあなたのあがないのためにエジプトを与え、あなたのためにクシとセバとを与えた(43・3)。

 

『クシとセバ』はここに信仰の霊的な事柄を示している。同書には―

 

 エジプトの労苦、クシの、また背の高い人、サベ人の商品はあなたのもとへ渡ってくるであろう(45・14)。

 

 『エジプトの労苦』は記憶知を意味し、『クシとサベ人との商品』は主を信じる者たちに役立つ霊的な事柄の知識を意味している。

 

[3]同書に―

 

 おびただしいらくだ、ミデアンとエバのわかいらくだがあなたをおおうであろう、かれらは凡てシバから来るであろう、かれらは黄金と乳香とをたずさえてきて、エホバを声高らかに賛美するであろう。アラビヤの羊の群はことごとくあなたのもとにともに集められるであろう(60・6、7)。

 

『シバ』によりここでは『黄金と乳香』である天的な事柄とそこから派生した霊的な事柄とが意味され、これらが『エホバを賛美するもの』であり、すなわち、内なる礼拝であることが説明されている。

 

[4]エゼキエル書には―

 

 シバとラーマとの貿易人、これらの者は凡ゆる香料の主要なものを、凡ての宝石をあなたと交易した者であった、かれらはあなたの助けのために黄金を与えた(27・22、23)。

 

 これはツロについて言われている。ここに『シバとラーマ』により意味されているものは、香料、宝石、金であると言われているかれらの商品から明白である。『香料』はその内意では仁慈であり、『宝石』は仁慈から発した信仰であり、『黄金』は主に対する愛であり、その凡ては『シバ』により意味されている天的な事柄である。元来こうした事柄の知識が『シバ』であり(それでそれらはここに『商品』と呼ばれているが)、教会の人間になりつつある者たちは凡てそうしたものに浸透するのである、なぜならたれも知識がなくては教会の人間になることができないからである。

 

[5]これに類似した事柄がソロモンのもとへ来て、香料、黄金、宝石を携えて来たシバの女王により表象され(列王記上10・1−3)、また東から来た賢人たちによっても表象されたのである。すなわち、かれらはイエスが生まれたもうた時、その許に来て、平伏し、これを拝し、宝物を開いて、黄金、乳香、没薬の捧物を捧げたのであるが(マタイ2・11、12)、そうした捧物により善が、すなわち、天的な、霊的な、自然的な善が意味されたのである。エレミヤ記には―

 

 何の目的シバからわたしのもとに乳香が、遠い国から甘美なしょうぶが来るのか。あなたらのはん祭は受け入れられなしない(6・20)。

 

 ここにもまた『シバ』により知識と崇拝とが意味されていて、その知識と崇拝とが『香料』と『しょうぶ』であるが、しかしこの場合それらは仁慈を欠如したものであって、嘉納されはしないことが明白である。