シャッダイ

 

天界の秘義1992[4]

 

主が『シャッダイ』の名により彼らの前に初めて表象されることを望まれた理由は、主はたれかの中にその者の幼少期から植えつけられている礼拝を不意には(まして一瞬には)破壊しようとは決して望まれはしないということである。なぜならこれは根元をひきちぎって、そのことによってそれまでに深く植えつけられている崇拝と礼拝の聖い状態を破壊してしまうことであり、主はそれを決して破壊されないで、たわめられるからである。幼少の頃から植えつけられている礼拝の聖い状態は暴力には堪えることは出来ないで、ただ優しく親切にたわめられることにのみ堪えることが出来る性質を持っているのである。身体の生命の中では偶像を拝しはしたものの、相互愛に生きていた異教徒の場合も同じである。彼らの礼拝の聖い状態は幼少の頃から植えつけられているため、他生ではそれは一瞬に取り去られるのではなく、継続的に取り去られるのである、なぜなら相互愛に生きている者たちの中には信仰の諸々の善と真理とは容易に植えつけられることが出来て、彼は後に喜びをもってこれを受けるからである、なぜなら仁慈[相互愛]こそその土壌そのものであるからである。そしてアブラハムとイサクとヤコブの場合もまたそうであったのであり、主は彼らに『神シャッダイ』の名を保持することを許されて、ご自分が神シャッダイであると言われさえもしたのであるが、これはその名の意義から来ていたのである。

 

 

天界の秘義1992[5]

 

しかし元来『試みる者』または『試す者』を意味

 

 

天界の秘義1992[6]

 

シャッダイはこのように真理の神として尊ばれた

 

 

天界の秘義3667

 

『神シャッダイ』が試練を意味している理由は、古代ではかれらは最高の神(すなわち、主)を色々な名で区別して、この区別は主の属性に応じており、主から発している善に応じており、また真理に応じて行われたということであって、それらにはいくたのものがあることは各自に知られている事実である。古代教会にぞくした者たちはことごとくこれらの名によりただ一人の神を、すなわち、主を理解してその方をエホバと呼んだのであるが、しかしその教会が善と真理から衰退すると同時にこの知恵からも衰退した後ではかれらは一人の神につけられた幾多の名と同数の神々を礼拝し始めて、それが各々の国民が、ついには各々の氏族がその神々の一人を自分自身の神として承認するほどにもなり、そこから聖言にしばしば記されている多くの神々が発生してきたのである。

 

 

天界の秘義3667〔2〕

 

 同じことがアブラハムの父テラの氏族にも起り、またアブラハムの家にも起ったのである、なぜならかれらは(前の1356、2559番に見ることができるように)他の神々を拝し、とくにシャッダイ神を拝したのである(1992番)。この神礼拝がその家に存続していたこともまたモーセの以下の言葉から明白である―

 

 わたしは神シャッダイの中にアブラハム、イサク、ヤコブに現れたが、しかしわたしの名エホバによってはかれらに知られはしなかった(出エジプト記6・3)。

 

 

天界の秘義5628

 

「神シャッダイ」(創世記43・14)。これは困苦の後の慰安を意味していることは『シャッダイ』の意義から明白であり、それは試練と試練の後の慰安であり(1992,4572)、それでここではかれらがエジプトで受けた困苦の後の慰安である。それは困苦の後の慰安であることはつづいて後に記されている言葉『その男の人の前にあなたたちに慈悲を与えられるように』からもまた明らかである。『シャッダイ』が試練と後の慰安を意味していることは、古代人は只一人の神を種々の名前により、その神から発している種々のものに従って示したためであり、かれらは試練はその神から発していると信じたため、そのときはは神を『シャッダイ』と呼び、この名前により他の神を意味しないで、試練の方面の只一人の神を意味したのである。しかし古代教会が衰微するにつれ、かれらは只一人の神に対する名前と同数の神々を礼拝しはじめ、またかれら自身でその神々にさらに多くの神々を附加したのである。このようなことを行うことがついには各家族がその家族の神を持つほどにもひろまり、かれらはその神を他の家族から拝されている神から全く区別したのである。

 

 

天界の秘義5628[2]

 

テラの家族は―アブラハムはその家族の一人であったが―シャッダイをその神として拝し(1356,1992,2559,3667)、そこからアブラハムのみでなく、ヤコブもまた、カナンの地においてすらシャッダイを己が神として承認したが、このことはかれらが強制的にかれら自身の宗教の形から引きはなさないために許されたのである。なぜなら何人もその者が聖いものとして認めているものから強制的に引きはなされはしないからである。しかし古代人は『シャッダイ』によりエホバ御自身を、または主を理解し、主はかれらが試練を受けたとき、そのように名づけられたもうたため、それでエホバまたは主は創世記17・1から明らかなように、この名をアブラハムのもとに回復されたのであり、またヤコブのもとにも回復されたのである(創世記35・11)。試練のみでなく、慰安もまた『シャッダイ』により意味されている理由は、慰安は霊的な試練の凡てに続いて起こるということである。このことをわたしは他生における経験から知ることができたのである。なぜならそこでたれかが悪霊にとりつかれ、悪を刺激され、誤謬を説きつけられて苦しむとき、その悪霊が遠ざけられてしまった後では、天使たちに迎えられ、その気質に適合した歓喜により楽しい状態へ入れられるからである。

 

 

 

天界の秘義7193〔3〕

 

(『シャッダイ神』により試練が意味され、後には慰めが意味されることについては、1992、3667、4572、5628番を参照されたい。)『その後に慰め』と言われているのは、丁度朝と暁とが夕と夜の後に訪れてくるように、慰めが試練の苦痛の後に訪れてくるためである。それらのものの間にもまた相応が存在しているのである、なぜなら世に季節の交替が在るように、他生にも状態の交替があるからである。試練と懊悩の状態、また荒涼の状態は他生では夕と夜であり、慰めと歓びの状態は朝と暁である。その同じ言葉により、即ち、『わたしはアブラハムに、イサクに、ヤコブに、シャッダイ神として現れた』により、また忠信な者の試練が意味され、後には慰めが意味されているのは、試練により行われる人間の再生は主の栄化の映像であるからであり(3138、3212、3296、3490、4402、5688番)、それで聖言の中でその最高の意義において主について理解される事柄はそれと関連した内意では忠信な者についても理解されるのである。

 

 

天界の秘義7194

 

それでかれはアブラハムに、イサクに、ヤコブに知られ給うたが、その名のエホバによっては知られなかったと言われているのである。これがこれらの言葉の内意であるが、しかし外なる、または歴史的な意義は異なっており、この後の意義からはアブラハム、イサク、ヤコブはエホバを拝しないで、シャッダイ神を拝し(1992、3667、5628番)、アブラハムはエホバを知らなかったことが明白である(1356、2559番)。しかしアブラハム、イサク、ヤコブを取り扱っている歴史的なものの中に『エホバ』が記されているのは、その聖言はモーセにより記されて、モーセには『エホバ』の名が知られており、この歴史的なものの中には『エホバ』はその内意のために記されているためである、なぜなら聖言の凡ゆる所には取扱われている主題が愛の善である時は『エホバ』と記されているに反し、それが信仰の真理である時は、『神』と記されるからである(709、732、1096、2586、2769、2807、2822、3921、4402番)。