僭取

 

 

天界の秘義2813[2]

 

これらのすべての所に、『人の子』により、真理の神的なものの方面の、または内意における聖言の方面の主が意味されており、それが祭司長と学者らにより斥けられ、恥ずかしめられ、鞭打たれ、唾を吐きかけられ、十字架につけられたのであり、そのことはユダヤ人が文字に従って凡ゆる物を彼ら自身に適用し、僭取(せんしゅ)し、聖言の霊的意義については、天界の王国についてはいかようなことも知ろうとはしないで、メシアが来て、彼らの王国を地の凡ゆる王国の上に持ち上げるであろうと、現在でもまた信じているように、信じたという事実から明白になるであろう。ここから、彼らにより斥けられ、恥ずかしめられ、鞭打たれ、十字架につけられたのは真理の神的なものであったということが明らかである。真理の神的なものと言うも、真理の神的なものの方面の主と言うも、それは同じことである。なぜなら主は、聖言そのものであられるため、真理そのものであられるからである(2011、2016、2533番の終り)。

 

 

神の摂理257

 

しかしなぜ主はこれを許されたかを今説明しよう。主はそれを人間の救いのために許されたことは否定することは出来ない。なぜなら主なしには救いはないことはよく知られており、それ故主が聖言から宣べ伝えられて、キリスト教会がそれにより建設されねばならなかったからである。しかしこれはその業に熱心な指導者によってのみ為されることができたのであり、その指導者の中にはその表面の熱意が熱情または自己愛で燃やされている者以外の者は見出されなかったのである。この熱情が先ず彼らを刺激して主を知らせ、聖言の真理を知らせたのであり、魔王が『朝の子』(12節)と呼ばれているのは、この最初の状態のためである。しかし彼らは教会の聖い物により支配することが出来ることを認めると、最初彼らを刺激して主を知らせた自己愛が内から迸り出て、遂には自分自身に主の神的な権能を僭取し、主には何ものも残さないほどにも甚だしくなった。これは主の神的摂理によりとどめることは出来なかった、なぜならそのような場合彼らは主は神ではなく、聖言も聖くはないと宣言し、ソツニウス派またはアリウス派となり、かくして全教会を―それは今も、その支配者らの性格は如何なるものでもあれ、従順な人々の許に存在しているのである―破壊したことであろう。なぜならこの宗教に属し、主に近づき、悪を罪として避ける者は凡て救われ、それゆえ霊界では多くの天界の共同体が彼らから形作られているからである。