聖母は執り成す

 

 

 

マリア・ワルトルタ34・17/天使館第1巻P297

 

主がマリア・ワルトルタに:

 

甘美な道しるべとなる最後の教えがあります。

 まだ祝福を与えることを知らない幼いイエズスの手を取り、聖なる十字架の印を描くよう誘導するマリアです。

 

 イエズスの手を取り、それを誘導するのは常にマリアです。今でもそうです。今、イエズスは自分で祝福することができます。だが時として、釘で刺し貫かれたその手は、疲労と不信のために上がらなくなるときがあります。祝福するのは空しいことだと知っているからです。あなたたちは、わたしの祝福をぼろぼろにしてしまうからです。わたしの手が上がらないのは、あなたたちの呪いを聞くからでもあります。そこでマリアは、この手に接吻し、わたしの憤りを和らげようとします。おお!わたしの母の接吻!この接吻に抗う者がどこにいるでしょうか!その後、彼女はそのか細い指に力と愛情を込めて、わたしの手首を取り、祝福を与えるようにと、わたしに強いるのです。

 

 わたしは母につれなくすることは金輪際できない。それどころか、あなたたちの弁護人になってもらうために、彼女のところに行かねばならないのです。彼女はあなたたちの女王である前に、わたしの女王であり、あなたたちに対する彼女の愛には、わたしのそれとは一味違う寛容さがあります。そして、彼女はたとえ語らなくてもその真珠のような涙と、幼かったわたしの手を取り、宙に描かせたわたしの十字架の記憶と共に、あなたたちに関わる訴訟を弁護し、わたしを諭すのです。『あなたは救い主ですよ。さあ、救いなさい』と言って。

 

子らよ、これこそ、博士たちの場面に啓示される『信仰の福音書』です。黙想せよ、そして倣うのです。あなたたちの幸せのために」。

 

 

マリア・ワルトルタ52・9/天使館第1巻P473

 

 イエズスは次のようにわたしに教えられる。

「わたしは弟子たちに、『母を喜ばせに行こう』と言った。この言葉からは窺い知れない、遥かに深遠な意味をわたしはこの一言に込めていた。わたしと会うことで母を喜ばせようとしたのではなく、彼女こそ、わたしの奇跡の活動の発起人、人類が有する最初の恩人であることを知らせ、喜ばせようとしたのです。このことを常に記憶してほしい。わたしの最初の奇跡は、マリアによってなされたのです。このことを常に記憶してほしい。わたしの最初の奇跡は、マリアによってなされたのです。最初の奇跡です。マリアがこの奇跡の鍵を象徴します。わたしは母には何一つ拒まないし、彼女に願われるなら恵みの時も早めます。わたしがあなた方を恵むと、神に次ぐ善良な彼女が、欣喜雀躍するのをわたしは知っています。何はともあれ、彼女は愛そのものなのだから。わたしが『母を喜ばせに行こう』と言った理由はそれなのです。

 その上、わたしはわたしの力と共にマリアの力を世に示したかった。マリアは肉においてわたしに結合すべく定められた―わたしたちは一つの肉であったから。わたしは彼女のうちにあり、香り高く、生命に満ちた雌蕊を囲む百合の花弁のように、彼女はわたしを取り囲んでいる―わたしは自分の肉をもって、彼女はその霊魂をもって、わたしたちは十字架上にいたので、苦しみにおいてわたしに結合していたし、花冠とそこから抽出されるエッセンスをもって香る百合の花のように、マリアが、世に示す力においてわたしに結合しているのは当然でした。

 あの婚宴の列席者たちに言ったように、わたしはあなたたちに言う。『マリアに感謝しなさい。あなたたちが、奇跡の主を、わたしの恩寵を、特に赦しの恩寵を有したのは、彼女によってなのだ』と。

 平安のうちに憩いなさい。わたしたちあなたと一緒にいる」。

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P262

 

 おお!苦しいときはいつでも私にそう願ってくれさえすればいいのです!

 私はイエズスの永遠なる捧持者です。イエズスは私の胎の内におられます・・・聖体顕示台の中のホスチアのように。私のもとに来る者は御子を見いだします。私によりかかる者は、御子に触れます。私に語りかける者は、イエズスに話しかけているのです。私はイエズスの衣であり、イエズスは私の魂です。御子はいまでは、私の胎内に九ヶ月間おられていたときよりも、さらに強い絆で母である私と結ばれているのです。私のもとに来て、その頭を私の胸にゆだねる者は、どんな苦痛もやわらげられ、あらゆる希望が湧き起こり、すべての恵みに満ち溢れるのです。

 私はあなた方のために祈っています。このことを覚えていてください。天国での至福、神の栄光のなかに暮らしていても、私が地上で苦しんでいる私の子供たちのことを忘れることはありません。だから私は祈ります。そして天国の全員が祈っています。なぜなら天国では誰もが愛しているからです。天国は生ける慈愛なのです。そしてその慈愛はあなた方に憐れみを注いでいます。でも、かりに私だけの祈りであるとしても、神に希望を置く人々の必要を満たすのに十分です。なぜなら、私は心の清い者であれ、邪な者であれ、すべての者のために祈り続けているからです。心の清い者には喜びを、邪悪なものには悔い改めて救われるようにと、祈り続けているのです。

 悲しみ嘆く子供たちよ、来なさい、あなたたちに恵みが与えられるように、私は十字架の足下で待ち続けます。