サラ

 

 

1.アブラハムの妻

2.ユッタの三人の子の母親

 

 

 

 

1.アブラハムの妻

 

 

 

天界の秘義1489

 

「アブラハムの妻、サライのために」。

 

これは、天的なものに接合されねばならなかった真理のために、を意味していることは『妻』の意義から明白であり、従って『妻サライ』の意義から明白であり、それは天的なものに接合されなくてはならない真理であって、それについては前の十二節を参照されたい。実情は以下のようである、すなわち、子供時代に人間を合理的なものにする用を遂行した知識が破壊されて、無とならない限り、真理は天的なものに決して連結されることはできないのである。これらの最初の記憶知の大半は地的なものであり、形体的なものであり、世的なものである。子供が学ぶ教えはいかほど神的なものであるにしても、かれはそれについてはそのような知識から得られる考え以外にはいかようなものも持っていない、それでかれの考えが起ってくる源泉であるその最も低い知識がかれに密着している限り、かれの心が高揚されることはできないのである。主にあっても同じであった、それは主も他の人間のように生まれたまい、他の人間のように教育されねばならなかったためである。エジプトにおけるアブラハムについて言われているこれらの事柄の中には神的秩序が記されているのである、すなわち主の中に、外なる人もまた神的なものになるため外なる人がいかようにして内なる人に連結したかが記されているのである。

 

 

天界の秘義2063

 

「あなたはその名をサライと呼んではならない、サラ〔サラー〕がその名前であるからである」。これは主が人間的なものを脱ぎ棄てられて、神的なものを着けられるであろうということを意味していることは、前に〔5節〕アブラハムについて言われたことから明白であり、そこに『あなたの名前はもはやアブラムと呼んではならない、あなたの名前はアブラハムとしなくてはならない』という言葉が記されていて、そのことにより同じく主は人間的なものを脱ぎ棄てられて、神的なものを着けられるであろうということが意味されているのである(2009番参照)。なぜなら『サラー』(Sarah)という名に附加された文字のHは『エホバ』(Jehovah)という名前から取られたのであり、それでサラーはアブラハムのように主の神的なものを表象しなくてはならないのであり、かくして主における真理と善の神的な結婚が表象されて―アブラハムは神的善を、サラーは神的真理を表象するのであるが―そこからイサクである神的な合理的なものが生まれなくてはならあにからである。

 

〔2〕神的な善は―それは愛であり、人類に関連すると、慈悲であるが―主の内なるものであったのであり、すなわち、善そのものであるエホバであったのであり、これがアブラハムにより表象されているのである。神的な善に連結されねばならなかった真理がサライにより表象されたのであり、そしてこの真理は、それがまた神的なものになされたとき、サラーにより表象されたのである、なぜなら主は、すでに言ったように、エホバとの結合に向って継続的に進まれたからである。サライにより表象されているところのいまだ神的なものでなかった真理は、それがいまだ善から発している真理であるほどに善に結合していなかったときはそのようなものであった。しかしそれが善から発しているほどに善に結合したとき、そのときはそれは神的なものであったのであり、その真理そのものはそのとき、それが善の真理であったため、また善であったのである。善に結合するために善に向ってすすんで行く真理と全く善から発している程に結合している真理とは異なっている。善に向って進んでいる真理は依然何かを人間的なものから取得しているが、しかし善に全く結合している真理は人間的なものをことごとく脱ぎ去ってしまって、神的なものを着けているのである。

 

〔3〕これも前のように人間における類似したものにより説明することができよう。人間は再生しつつあるときは、すなわち、かれが主に連結しなければならないときは、かれは真理により、すなわち、信仰の真理により連結に向って進むのである、なぜならたれ一人その者が連結へ向って進む手段となる真理であるところの、信仰の諸知識によらなくては再生することはできないからである。主はこの知識に善により、すなわち仁慈により出会おうとして進み出られ、その善(その仁慈)を信仰の知識に、すなわち、そのいくたの真理に適応させられ、または適合させられるのである、なぜならいくたの真理はことごとく善の受容器官であり、それで真理が純粋なものであればあるほど、またそれが増し加えられておればおるほど、ますます豊かに善はそのいくたの真理を容器として受け入れ、いくたの真理を秩序づけ、ついにはそれ自身を明らかに示すことができ、かくて最後にはいくたの真理は、善がそのいくたの真理を通して輝かないかぎりは、現われなくなってしまうのである。このようにして真理は天的な霊的なものとなるのである。主は仁慈のものである善の中にのみもっぱら現存されているため、その人間はこうした方法によって主に連結するのであり、善により、すなわち、仁慈により、良心を与えられ、後にはその良心から真であるものを考え、正しいことを行うのであるが、しかしこの良心はいくたの真理と正しい事柄に―そのいくたの真理と正しい事柄に善または仁慈が適応され、また適合されているのであるが、そうしたいくたの真理と正しい事柄に―順応しているのである。

 

 

天界の秘義2195

 

「サラは天幕の戸の辺りで聞いた」。これは合理的な真理がそのとき聖いものの近くにあったことを意味していることは以下から明白である、すなわち、サラの表象は合理的な真理であり(2173、2194番を参照)、『天幕』の表象は聖いものであり、(414、1102、1566、2145番を参照)、かくて『天幕の戸』の意義は聖いものへ入る入口であり、かくて聖いものに近いことである(前の2145番を参照されたい)。これらのものはいかようになっているかは今以下に記そう。

 

 

天界の秘義2196

 

「それはかれの後にあった」。これは、合理的なものがそのときその内にあった善の近くにありまたそこから人間的なものの何かがその中にあったと言われている事実から明白である。『かれの後に』あることは、連結しないで、『かれの後に』在ることを意味している。たれかから分離しているものはいわば遠方へ斥ける[遠ざける]といったことにより表象されており、そのことは他生における表象的なものから明白である、そのことについては(経験から393、1875番に記しておいた)。そのことがここにサラのいた戸が『かれの後に』あったと言われていることにより表象されているのである。

 

[]そのとき主のもとにあった単に人間的な合理的な真理は、主が御自身を神的なものに連結されたとき主から分離していたことについては、その実相は以下のようである。人間の合理的な真理は神的なものを把握しないのである、それは神的なものはその合理的な真理の理解の領域の上方にあるからである、なぜならこの真理は自然的な人の中に存在している記憶知と交流していて、それがその記憶知からその合理的な真理の上方にあるものを眺めるかぎり、それはそのものを承認しないからである。なぜならこの真理は外観の中にあって、その外観をそれは脱ぎ去ることはできないのであり、外観は感覚的なものから生まれていて、その感覚的なものは神的なもの自身もまた同じような性質をもっているかのような信念を生み出すからであるが、事実はこの神的なものはあらゆる外観からは自由であって、それが[その神的なものが]述べられるにしても、この合理的な真理はそれを把握することができないため、到底それを信じることはできないのである。

 

[]たとえば人間は主から発している生命を除いてはいかような生命をも持っていないと述べられるなら、合理的なものは、そうした場合人間は自分自身で生きているようには生きることはできないと外観から考えるが、しかし人間が自分は主から生きていることを認めるとき初めて真に生きるのである。

 

[]合理的なものは、人間が行う善は人間自身から発していると外観から考えるが、それでも善は何一つ自己からは発してはいないで、すべては主から発しているのである。

 

[]人間は善を行うとき救いに価すると、合理的なものは外観から考えるが(真理は)それに反して、人間は自分自身では何物にも価してはおらず、功績はことごとく主のものなのである。

 

[]人間はかれが主により悪から遠ざけられて、善の中に維持されるとき、かれのもとには善で正しいもの以外には、いな、聖いもの以外には何ものもないと外観から考えはするが、(真理は)それに反して人間の中には悪い、不正な、汚れたもの以外には何ものも存在していないのである。

 

[]人間は、かれが仁慈から善いことを行うときかれはそれをかれの意志から行うのであると外観から考えるが、(真理は)それに反してそれはかれの意志の部分から発しているのでなく、仁慈を植えつけられているところのかれの知的な部分から発しているのである。

 

[8]世の栄光[栄誉]がないならいかような栄光もあり得ないと人間は外観から考えはするが、(真理は)それに反して天界の栄光の中には世の栄光はその一かけらすらも存在してはいないのである。

 

[13]その他巨万のこうした事柄があるが、そうした事柄は、人間の合理的なものは、感覚の事柄から生まれていて、その感覚の事柄により暗くされているため、それ自身の光からは到底信じることはできないのである。いな、合理的なものは自然的なものそれ自身の中に盲目にされてしまって、たとえば、地球の反対側に住んでいる者がどうしてその足の上に立って歩くことができるかを把握することもできないのであって、このことは他の極めて多くの事柄にも言われるのである。それで自然的なものを遥かに超越している霊的な天界的なものにおいては合理的なものはいかに盲目であるにちがいないことか。

 

 

 

 

2.ユッタの三人の子の母親

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻中P114/397・5

 

 イエズスはじっとそれを受け、それぞれに別れを告げる。

 やっと全員が満足し・・・宿を貸してくれた家族だけが残る・・・彼らはイエズスの周りに集まる。そして、サラが言う、「本当に、もう来てくださらないのですか? 」。