彷徨う

 

 

天界の秘義2679

 

「彼女は去り、ベエルシバの荒野を彷徨った」(創世記21・14)。これはその時信仰の教義的なものの中を彷徨する状態を意味していることは以下から明白である。『行って荒野を彷徨うこと』の意味は彷徨する状態であり、『ベエルシバ』の意義は信仰の教義である。

 

この節には改良される者たちの状態の性質はその始めはいかようなものであるかが記されているのである、すなわち、彼らは色々な彷徨に拉し去られるのである。なぜなら永遠の生命について多くのことを、かくて信仰の諸真理について多くのことを考えることが主により彼らに与えられているからであるが、しかし彼らは(今し方述べたように)彼ら自身のものであるものから考えるため、教義においても生活においても、彼方此方と彷徨わないわけにはいかないで、その幼少期から教え込まれたものを、または他人から彼らに印象づけられたものを、または自分自身から考え抜いたものを真理として掴まえるため―さらに彼らはその意識もしていない色々な情愛により迷わされるため―彼らは未だ、形と美と味わいとを一瞬には生みつけられることの出来ない未熟な果実のようなものであり、またはたちまち成長して、花と穂をつけることは出来ない柔かい葉のようなものである。しかしその時入ってくるものは、その大半は誤ったものではあるが、それでも成長を促進させる上に役に立つといったものであり、後になって、その人間が改良されつつあるとき、これらのものは一部は分離するが、一部はその後の生命に対して滋養を、またいわば液汁といったものをもたらしてくることに役立つのであり、さらにそれらのものは後になって一部は主が善と真理を植えつけ給うために用いられることが出来、また一部は究極的な面として霊的なものに役立つように用いられることが出来、かくして改良にいたる不断の手段として用いられることが出来るのであり、そうした手段は絶えず(互いに)関連し、また秩序をもって(互いに)他に絶えず続いているのである。なぜなら人間の凡ゆるものはその最小のものすらも主により予見され、永遠にその者の未来の状態のために供えられており、しかもそれは何らかの方法で可能な限り、またその者が自分自身が主により導かれるのに甘んじる限りその者の益になるように行われているのである。