サマリア人

1.聖書より

2.サマリア・・真理に対する情愛

サマリア人・・真理に対する情愛の中にいる者

3.サマリア・・霊的な教会

 

 

1.聖書より

 

ルカ10・25−37

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

 

ルカ17・11−19

イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

ヨハネ4・1−43

さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―― ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 

 

 

2.サマリア・・真理に対する情愛

サマリア人・・真理に対する情愛の中にいる者

 

天界の秘義9057[2]

 

聖言の内なる意義を理解している者はなぜ主が、サマリア人は『その打ち傷に包帯をして、油とぶどう酒を注ぎ、かれを自分自身の獣にのせた』と言われたかを知ることができるのである。なぜなら内意では『サマリア人』により真理に対する情愛の中にいる者が意味され、『打ち傷を包帯すること』により、この情愛が害われたとき、それをいやすことが意味され、『油とぶどう酒とを注ぐこと』により愛の善と信仰の善とが意味され、『かれを自分自身の獣にのせること』により自分自身の理知的なものによりかれをもち上げることが意味されているからである。

 

かくてこれらの言葉により隣人に対する仁慈が記されており、世の人間に対しては自然的に、天界の天使たちに対しては霊的に、(すなわち)文字の意義では自然的に、内意では霊的に記されているのである。『サマリア人』が真理に対する情愛の中にいる者を意味している理由は、『サマリア』は聖言ではこの情愛を意味しているということである(『油』は愛の善を意味していることについては、886、3728,4582番を参照し、また『ぶどう酒』は信仰の善を意味していることについては、1798、6377番を参照し、『荷役用の獣』は理知的なものを意味していることについては、2761、2762,2781、3217、5321、5741,6125、6401、6534、7024、8146、8148番を参照されたい)。

 

主はこのように語られたのであるが、しかし僅かな者しかこのことを理解していない、なぜならかれらはこうした事柄はたんにそのたとえ話しに物語りの関連性を与えるためにのみ言われたのであると信じているからである、しかしもしそうだとするならそれは神的なもの[神]から発した言葉ではないのである。神的なものから発した言葉はすべてその中には主と天界と教会とにぞくしている事柄を含んでおり、それが凡ゆる一点にさえも言われるのである(前の9049番を参照)。

 

 

 

3.サマリア・・霊的な教会

 

天界の秘義2702

 

イスラエルはヤコブの泉のほとりに独り安らかに、穀物と新しいぶどうの地に住んだ、まことに、かれの天は露をしたたらす(申命記33・28)。

 

『ヤコブの泉』は聖言とそこから発している真理の教義を意味している。『ヤコブの泉』は聖言とそこから発している真理の教義を意味しているため、主はヤコブの泉のほとりへ来られたとき、ヨハネ伝に記されているように、主はサマリアの女と話され、主は『泉』と『水』により意味されていることを教えられたのである―

 

(ヨハネ4・5,6,7,10,13,14)

 

(聖言にしばしば見られるように)『ヤコブの泉』は聖言を、『水』は真理を、『サマリア』は霊的な教会を意味したため、主はサマリアの女と話されて、真理の教義は主から発していることを教えられ、またそれが主から、または主と同一のものであるところの、主の聖言から発しているとき、それは湧き出て永遠の生命となる水の泉であり、真理そのものが生きた水であることを教えられたのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P251

 

異邦人とかサマリア人よりも、イスラエルの家のさまよっている羊を探しなさい。それは異邦人を軽蔑するのではなく、彼らを回心させる能力が、あなたたちには、まだ備わっていないからです。