理解と意志との連結

 

 

 

天界と地獄423

 

 先ず、理解と意志との連結について、またそれは善と真理との連結と同じものであることについて少しく話しておかなくてはならない。なぜならその連結は霊たちの世界で行われるからである。人間は理解を持ち、また意志を持っている。理解は真理を受け入れ、真理から形作られ、意志は善を受け入れ、善から形作られ、それで人間がその理解から理解し、考えるものを凡て真と呼び、その意志から意志し[欲し]、為さないならば、それを意志から考えはしないのである。彼がそれを意志し、意志することからそれを為すとき、そのときはそれは理解の中にも意志の中にも存在し、従ってその人間の中に存在するのである。なぜなら人間は理解のみでは作られず、意志のみでも作られず、意志と理解とが結合して作られるからであり、それでその両方の中にあるものがその人間の中に在って、彼のものとなされる。理解の中にのみしかないものは実際人間のもとにはあるが、人間の中にはない、それは単に彼に記憶されているものであり、記憶の中の知識であり、その知識を彼は自分自身の中にいないで、自分自身の外に出て、他の者と共にいるとき、考えることができ、従ってそのことについて語り、論じたりすることができ、またそのことに従って色々な情愛や動作を装うことも出来るのである。

 

 

 

天界と地獄424

 

 人間は理解から考えることが出来るが、それと同時に意志から考えないことも出来ることは、人間が改良されることが出来るために定められている。なぜなら人間は真理により改良され、そして真理は、すでに述べたように、理解に属するからである。なぜなら人間は意志の方面では凡ゆる悪の中へ生まれ、従って人間自身では何人に対しても善を意志しないで[欲しないで]、ただ自分自身にのみ善を欲し、自分自身にのみ善を欲する者は他の者に起こる不幸を、特にそれが自分自身の利益になるときに歓ぶからである。なぜなら彼は、他の凡ての者の善いものを、それが名誉であれ、富であれ、自分自身に得ようと望み、それを得ることができるに応じて、自分自身の中で喜ぶからである。こうしたことが匡正され、改良されるために人間は真理を理解し、真理によって、意志から起こってくる悪の諸々の情愛を征服することが与えられている。従って人間は理解から真理を考え、また真理を話し、真理を行うことが出来るが、しかも彼は彼自身から、すなわち、心情(ハート)から真理を行うものとならない中は、意志から真理を考えることは出来ない。しかし人間がそのようなものになるとそのときは彼が理解から考えるものは彼の信仰から発しており、意志から考えるものは彼の愛から発しており、それゆえ彼のもとに信仰と愛とは、理解と意志のように、連結しているのである。