ルベン

 

 

天界の秘義3863[3]

 

 本章にまた前の諸章にとり扱われている主題は自然的なものの再生であり、ここでは真理により善へ導き入れられる状態であるところのその最初の状態であるため、それでヤコブの最初の息子は、またはルベンは『エホバは見られた』から名づけられたのである、なぜならそれはその内意では主から発している信仰を意味しているからである。信仰はそれ自身において観察されるなら、それは理解における信仰であり、また意志における信仰である、信仰のものである真理を知り、理解することは理解における信仰と呼ばれるが、しかし信仰のものである真理を意志する[欲する]ことは意志における信仰と呼ばれている。理解における信仰は『ルベン』により意味されるものであるが、しかし意志における信仰は『シメオン』により意味されるものである。理解における信仰は、または真理を理解することは意志における信仰または真理を意志することに先立っていることはたれにでも明白であるにちがいない、なぜなら天界の善といった何かが人間に知られていないときは、かれはそれを意志する[欲する]ことができる以前に先ずそれが存在していることを知って、それがいかようなものであるかを理解しなくてはならないからである。

 

 

天界の秘義3863[5]

 

 『見ること』は―それに因んでルベンが名前をつけられたが、その『見ること』は―その内意では主から発している信仰を意味していることは、聖言の極めて多くの記事から明らかであり、その中から以下のものを引用してよいであろう―

 

 エホバはモーセに言われた、火の蛇を作り、それを柱の上におきなさい、たれでも噛まれて、それを見る者は生きるようになるでしょう。モーセは銅で蛇を作り、それを柱の上においた、蛇がたれかをかんで、そのかまれた者が銅の蛇を見たなら、その者は再び生きるようになった(民数記21・8、9)。

 

 銅の蛇は主を外なる感覚的なものまたは自然的なものの方面で表象したことは前に見ることができ(197番)、『銅』は自然的なものを意味している(425、1551番)。主に対する信仰は、それを見、または仰ぎ見た者が再び生きたことにより表象されたことを、主御自身がヨハネの書の中で教えられている―

 

 モーセが荒野に蛇を挙げたように、人の子もそのように挙げられねばならない、かれを信じる者はたれでもことごとく滅びないで、永遠の生命を得るためである(3・14、15)。

 

 

天界の秘義3866

 

 レアがルベンが生まれた際そのルベンについて述べた言葉―『エホバは私の苦悩を見たもうた、なぜなら今私の男はわたしを愛するでしょうから』―という言葉の内意から『ルベン』は、またはルベンからその名をとった種族は教会の「いかようなもの」を意味しているかを認めることができよう、すなわち、それは再生の最初のものであるものを、または人間が教会になりつつあるときの最初のものであるものを、または人間が教会になりつつあるときの最初のものであるものを意味しておりそれは人間が生命の善に到達する手段となるところの教義の真理である。

 

 

天界の秘義4270

 

『ヤボクの渡し』の意義は初めて入れること[導入すること]である。『ヤボク』が最初の導入[初めて入れることを]を意味しているのはそれがカナンの地の境界であったためである。かの地の境界はすべてその距離と位置とに従って主の王国の天的なものと霊的なものとを意味したことについては、2585、2866、4116、4240番を参照されたい、かくてまた民数記21・24、申命記2・36、37、3・16,17、ヨシュア記12・2、士師記11・13、22から明白であるように、相対的にはこのようなものであり、ルベンとガドの子孫の嗣業の境界であったヤボクの浅瀬または渡しもそのことを意味していたのである。その地がこれらの者の嗣業となったことは、ルベンにより再生の最初のものであるところの理解における信仰が、または教義が意味され、または生命の善い到達する手段であるところの教義の真理の総合体が表象され(3861、3866 番)、ガドにより信仰の業が表象されたからである(3934番)。これらの信仰の真理または教義的な事柄と最初に行なわれる信仰の業とは再生しつつある人間が善へ導入される手段となる事柄である。『ヤボクの渡し』により最初の導入が意味されているのはこうした理由からである。

 

 

 

天界の秘義5541

 

ルベンがここに語っている理由は、教会がとり扱われていて、教会では教義における、また理解における信仰は外観的には第一位に立って、また教えるのであり、ここでは教会のいくたの物が破壊されないように、何を為さねばならないかを教えるということである。

 

 

天界の秘義6348

 

なぜならここにルベンにより表象されている教義または理解における信仰が善に導入されて、善と連結しないなら、それは消滅して、無力なものになるか、または悪い、誤ったものの中へ導入されて、それと連結するか、その何れかであり、そのことがここに意味されている醜悪な連結であるからである。なぜならそれはそのとき汚れたものとなるからである。それがそうであることは、信仰は善以外の何処にも住居を持つことはできないのであり、もしそれがそこに住居を持たないなら、それは無力なものになるか、または悪と連結するか、しなくてはならないという事実から認めることができよう。