リベカ
天界の秘義3077
「見よ、レベカが出てきた」。これは教義的な事柄から発している真理に対する情愛を意味していることは以下のことから明白である、すなわち、レベカの表象は合理的なものの神的善に連結することになっていた真理の神的なものであるが、しかしここでは、彼女が婚約しない間は、彼女は教義的な事柄から発している真理に対する情愛の表象を着ているのである、なぜならその情愛から真理が発しており、真理はそれが生命を持たないかぎり真理ではなく、その生命は愛に属している情愛であるからである。レベカは合理的なものの神的善に連結することになっていた真理の神的なものを表象していることは本章の内意に含まれているいくたの事柄から明白であり、またイサクは主の神的な合理的なものを表象しているという事実からも明白であり(1893、2066、2083、2630番)、かくてイサクの妻となったレベカは合理的なものの中に夫に妻が連結するように連結したものを表象しており、これが真理の神的なものであることを認めることができよう。なぜなら同じようにアブラハムは神的な善そのものを表象し、その妻のサラはその神的善に連結した神的真理そのものを表象したのであり(1468、1901、2063、2065、2904番)、そのことはイサクとレベカについても同じことであったが、しかしそれは主の神的な人間的なもの、すなわち主の合理的なものにおけるものを表象したからである。
天界の秘義3080
「その乙女は見るに非常に善かった[美しかった]」。これは真理の情愛の美[真理に対する情愛の美]を意味していることは、『乙女』の意義から明白であり、それは無垢がその中に宿っている情愛である(3067番)。『見るに非常に善い[美しい]』は美しさを(ここではそれがその乙女について言われているため、真理の情愛の美を)意味していることは、美はことごとく無垢を宿している善から発しているという事実から発している。善そのものはそれが内なる人から外なる人の中へ流れ入るとき、美を作り、ここから人間の美がことごとく発しているのである。このことは同様に以下の事実から認めることができよう、すなわち、たれ一人他の者の顔により心を動かされはしないで、その顔から輝き出ている情愛により心を動かされるのであり、善の中にいる者たちはそこに存在している善の情愛により心を動かされ、しかもその善の中に無垢が存在している度に応じて心を動かされるのである。かくて心を動かすものは自然的なものの中に在る霊的なものであって、霊的なものを欠いた自然的なものではない。同様に善の中にいる者たちは小さな子供たちにより心を動かされるのである、なぜならその子供たちはその顔、動作、言葉の中にある仁慈の無垢に比例してかれらには美しく見えるからである。(善良さと仁慈とが美を作り、それを生むものであることは前の553番に見ることができよう)。それ故『その乙女は見るに非常に善かった』が善を宿している真理の情愛の美しさを意味していることはここから発している。