パラマハンサ・ヨガナンダ
1893〜1952
1.「あるヨギの自叙伝」
パラマハンサ・ヨガナンダ著/森北出版
2.「人間の永遠の探求」/同
パラマハンサ・ヨガナンダ講話集
1.はじめに
2.神こそ幸福
3.唯一の神
4.イエス・キリスト
5.呼吸
6.『サンニャーシン・ミッション』
1.はじめに
著者はインドに生まれ、ヨガを修めて後アメリカに渡り、SRF(セルフ・リアリゼーション・フェロウシップ)といういかなる宗教にも属さない公益法人を設立した人。著者の子供時代からの逸話や自分を導いてくれた敬愛する先生との師弟関係など情感豊かに綴られています。
十年以上前、ヨガに興味を持っていた頃に読んだもの。その後スウェーデンボルグを通じてキリスト教を知ってからヨガ関係の本はすべて処分してしまいました。当時、この本はヨガにしてはキリストのことがずいぶん出てくるなという印象を持っていました。ところがサンダー・シングを読んで、その中で『サンニャーシン・ミッション』というキリスト教の秘密結社の話しが出て来、ヨガナンダのものは恐らくその流れを汲むものなのではないかと推測して納得しました。数年前、新しく講話集と共に自叙伝の方も再度入手して読みましたが、実質的には殆どキリスト教という気がします。
著者は世界中を旅行しますが、聖痕を受けた聖者テレーゼ・ノイマンを1935年にドイツに訪ね、その時のいきさつも一枚の写真入りで詳しく記されています(自叙伝P373−380)。
また、深い瞑想における呼吸法に関しての説明にはスウェーデンボルグと共通する点があるように思います。
2.神こそ幸福
講話集P131
今与えられているもので幸福になることを学びなさい。神が与えてくれた以上のものを望んではなりません。神はあなたが必要とするものを、あなたよりもよくご存知です。
講話集P132
人生の目的は神を見つけることだと言うと、多くの人には納得できないかも知れませんが、人生の目的は幸福を見つけることだという考えには、だれも異論はないでしょう。しかし、実は、神こそ幸福なのです。
3.唯一の神
講話集P11
われわれを神に目覚めさせるものは、教義の解釈ではなく、魂の自覚です。おのおのの宗教の根底に横たわる共通の真理を会得すれば、教義の違いは問題ではなくなります。私にとってはユダヤ教徒も、キリスト教徒も、ヒンズー教徒もありません。みな同じ兄弟です。私はどの寺院ででも礼拝します。なぜなら、それはみな私の父のために建てられたものだからです。
講話集P13
自分の内に神を見出した人は、どこの寺院や教会へ行っても、そこに神の存在を感じることができます。
講話集P397
神を愛する者は、あらゆる宗教を通して人々を導いておられる唯一の神を礼拝すべきです。
神はギーターの中でこう言っておられます―
「わたしを信じ求める者がいかなる道を取ろうとも、わたしはその程度に応じてわたしを現す。人がたどる道は信仰形式のいかんにかわらず、すべてわたしに通じている」(バガヴァッド・ギーター4・11)
ですから他人の信仰を批判してはなりません。信仰を持つ人に対しては、だれに対しても心からの愛と尊敬を表わすべきです。
寺院や教会を見たら、そこに宿りたまう神に、心の中で礼拝しなさい。
4.イエス・キリスト
講話集P93
“王の中の王”イエスは、短い地上の生涯では黄金の王座にすわることはありませんでしたが、その死後ニ千年もの間、何億という人々の心の王座に君臨してきました。これこそ最高の王座です。
自叙伝P506
ある晩、私が静かに祈っていると、エンシニタスの僧庵の私の居間が乳青色の光に満たされ、目の前に主イエスが輝かしいみ姿を現された。主は、まばらなあごひげと口ひげを生やした二十五歳くらいの青年に見えた。真ん中で分けた黒く長い髪は、きらめく金色の後光に包まれていた。
5.呼吸
自叙伝P508
ヒンズー教の聖典がヨガ科学を賞賛する理由は、それがだれにでも実行できるからである。もっとも、ヒンズー教徒以外でも、格別ヨガの技法を知らずに呼吸の神秘を解明した人たちが居る。それは、神に対する信仰の力が特に卓越した神秘家たちである。彼らはキリスト教や回教やその他の宗教の聖者たちで、実際に無呼吸不動の恍惚状態(サビカルパ・サマディ)にはいっているところを目撃されている。この状態は、神の直接認識を経験するにはどうしてもまず通らなければならない過程なのである。(さらに高いニルビカルパ・サマディの境地に達すると、聖者は神の中に意識を確立したまま、呼吸したり活動したりすることができるようになる)
スウェーデンボルグ/霊界日記3464
わたしは、子供時代から、このように数年間こうした呼吸へ入れられ、とくに思索に没頭することにより入れられたが、そのさい呼吸は静止しているように見えるのであり、もしそうでないと、真理に対する苛烈な研究はほとんど不可能なのである。その後、天界がわたしに開かれて、わたしが霊たちと話し合うことができたとき、わたしは時として短時間の間霊感のためほとんど全く呼吸しなかったのであり、単に思考の経過を持続するだけの空気を吸いこんだにすぎなかった。
6.『サンニャーシン・ミッション』
ミルトス/A.J.アパサミー/インドの聖者 スンダル・シング/P141―143
<サンヤシ・ミッションについての質問に対するサンダー・シングの答えより>
「宗教活動が、あるサンヤシ(托鉢僧)の集団によっておこなわれている。彼らは見たところ、キリストとキリストのメッセージを伝えることに生涯を捧げてきた点を除いて、ヒンドゥー教のサドゥと何ら変わらない。このサンヤシ修道会は厳格な規律を守り、新帰依者は12年間もの訓練を積まなくては、アーナンダの称号を得ることができない。彼らの中には、サンスクリット語と英語の両方で教育を受け、わが国で非常に高く尊敬されている者もいる」
「この秘密のミッションを初めて知ったのは、カイラスのマハリシに教えられたからである。わたし自身はその修道会に属していないが、彼らのキリスト教活動が偉大であることは証言できる。インド北部を歩き回っていたとき、この修道会の指導者たちの一部と知り合えたことは幸運だった。そして、彼らを介してキリストのメッセージが広められるときの犠牲的精神と愛情とに、わたしは強く心を打たれた」
「わたしがガンジス川のほとりで説教をしていたときのことである。ひとびとはサンヤシとしてのわたしは好きだが、わたしのメッセージは嫌いだといった。そして、近くに住み、多くの群集を引きつけていた、偉大なヒンドゥー教の伝道師を訪問してほしいといった。わたしは三日間、群集が多すぎて彼に近寄ることができなかった。
ある日、わたしはひとりでいる彼と会うことに成功した。わたしは自分がキリストの弟子であることを告げたとき、彼はわたしを抱き締めて<兄弟よ、わたしたちは同じ活動をしているのだ>といった。このあいさつに驚いたわたしが、彼がキリストの教えを説いている姿は一度も見たことがないというと、彼は次のように答えた。
<地を耕さずに種を蒔く農夫がいるだろうか。わたしは最初に聞き手の精神的価値観を呼び覚ますことを心がけ、正義への渇望感が生まれたときを見計らって、彼らの前にキリストを差し出すのである。わたしはこの古代の川のほとりで、これまでの一二ヶ月間で一ニ人もの教養あるヒンドゥー教徒に洗礼を施した>
それから彼は鞄を開け、いつも携帯している聖書を見せてくれた・・・」
「今の時代に最も必要なことは、教会が広い視野を持つということである。キリスト教徒たちは、宗派や教義の制限を超越し、いかなる形式のキリスト教精神であれ、容認する心構えでいなくてはならない。秘密のサンヤシ・ミッションはキリストの祝福を受けており、わたしたちにはなじみのない形式を取ってはいても、この国で偉大な活動をおこなうことができる。それを共に喜び、伝統的なキリスト教会の範囲を超えた多くのひとびとの心に、光を注いでいる明かりをこの国に植えつけ給うた主をほめたたえましょう」
以上
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P300
サンダー・シングは、北インドで出会ったあるパンディット(学者)の話を次のように伝えている。この人は、インドの聖典について説法することを常としていたが、あるとき、次のような言葉で話を結んだ。「ヴェーダ聖典は罪の贖いが必要であることを明らかにしている。しかし、贖う者はどこにいるのだろうか。ヴェーダの語るプラジャパティ、彼こそが罪人の代償として生命を与えたキリストなのである」。聴衆がこの言葉に動揺を見せると、彼はこう語った。「わたしは、あなた方以上にヴェーダを篤く信奉している。それは、ヴェーダが明らかにしているその人、イエス・キリストを信じているからである」
サンダー・シングは、同じ思想を次のようにいい換えた。「東洋の博士たちは、ベツレヘムへの星に従って旅立った。しかし、彼らがベツレヘムに着くと、もはや星は必要ではなくなった。義の太陽であるキリストを見たからである。太陽が昇るとき、星はその輝きを失う。インドには、まことの真理の探究者が数多くいる。彼らは、自分の星に忠実に従っているが、彼らを導くのは星明りでしかない。キリストこそが太陽である。ヒンドゥー教と仏教は水路を掘ってきたが、そこに流れる生ける水を持たなかった。この意味において、わたしは、キリストから生ける水を受けるように整えられたのである。ヒンドゥー教を満たすものがキリストである」