ピオ神父

(1887〜1968)

 

『魂の酸素−ピオ神父のことば−』/

パトリシア・トリース編/児島輝美訳/ドン・ボスコ社

 

1.はじめに

2.ピオ神父は主イエスを神と認めている

3.意外な告白

4.スウェーデンボルグとの一致

・「主は聖言を通して語られる」

 

 

 

1.はじめに

ピオ神父のことは前から気になっていました。第三者がピオ神父について

書いた本は2冊ほど手許にあったのですが、まだ読んでいませんでした。

この本はピオ神父自身の言葉が彼の手紙類からまとめられており、今回

非常に興味をもって読ませていただきました。とても良い本でした。

 

 

ところで、私はキリスト教の本を読む場合、最も気になることは何か

というと、それは著者がキリストを(唯一の父なる)神と認めているか

どうか、です。もし、神と認めているなら安心して読みます。

 

ただ、それについてはあまりはっきり明言したものはありません。

スウェーデンボルグとサンダー・シングは例外中の例外です。ほとんど

は色々な表現から著者の認識を推し測るだけです。恐らくそうだろうな

と思われるものなら仮に御父という表現が出て来ても、喜んで読みます。

 

もちろん、あまりその点について著者本人が明確に認識していなくても、

善意の内容のものなら読めますし、興味のあるものも多いのです。

 

しかし、明らかに父と子は別の存在、神とキリストとは別の存在である

ことを前提にしたようなもの、つまりキリストが神であることを否定して

いるものは全く読めません。少し読んでみても、全部読み通す興味と

気力が湧かないのです。

 

 

2.ピオ神父は主イエスを神と認めている

この本はそういう明言はしていなくともピオ神父自身は明らかに主イエスを神

と認識しているのではないかと思いました。いくつか例を上げてみましょう。

 

 

同書10

「もし神が愛のゆえにあれほどお苦しみなったのであれば、」

 

 

同書12

「イエスが私たちを愛し、私たちの幸せのために配慮してくださっている

ことを思い、心安らかになりましょう。主が親心以上の心づかいをもって、

いつも私たちを助けてくださることを疑わないように。

・・・

私たちの神は、なんと善いお方なのでしょう!」

 

 

同書48

「ああ私の神、私の栄光、私たちは拝領後に、初めてこう言えるでしょう。

ああ最愛の神、私たちのいのちの主、『ぶどう酒にもましてあなたの愛は

快く、あなたの香油、その流れる香油のように、あなたの名はかぐわしい。』

いとも優しい主が、この雅歌のおとめのように呼びかけることを許して

くださるとき、人は何ともいえない甘美さを感じ、イエスがすぐそばに

おられることに気づくのです。」

 

 

同書68

「私は、愛する主のなさることをうまく説明できません。主が、私という

この小さな器の中にご自身を惜しみなく注がれるので、私はこの無限の

愛の重さに耐えかねて、言葉にできない殉教を味わっているのです。

私の小さな心の中に、どうして無限の神を保つことができるでしょうか?

狭い檻に等しい私の魂の中に、どうして無限の神を

収めることができるでしょうか?

 

私の魂は痛みと愛、苦みと甘美さによって溶けています。

至高なる神から与えられたこれほど深い苦しみに、どうして耐えることが

できるでしょうか。自分の中に神を所有している喜びから、私はけがれなき

聖母と声を合わせずにはいられません。『わたしの魂は主をあがめ、・・・』。

神を自分の中に所有して、雅歌のおとめと共に言わずにはいられません。

『恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません』。

 

けれどもこの無限の愛の重みに耐えきれない自分を見て、私はおそろしさで

いっぱいになります。自分の心という狭い空間が、主を支えることが

できなければ、主から離れなければならないからです。」

 

 

同書108

「ああ神よ、わが心の王、わが幸せの唯一の源よ、私はいったいあとどのくらい

待てば、主のえもいわれぬ美しさをあますところなく味わえるのでしょうか?」

 

 

同書109

「私の心は、人となられた神への清らかな愛にあふれそうでした。」

 

 

2.意外な告白

ピオ神父と言えば告解に来た人を大声で怒鳴って追い返したというようなエピ

ソードを聞きます。しかし、この本にはピオ神父の意外な告白がありました。

 

 

同書70

「私が唯一後悔しているのは、人を正すときに、不本意で無意識にも、

時折声を張りあげてしまうことです。これは恥ずべき短所ですが、

無意識のうちにしているのにどうやって直すことができるでしょうか?

 

私はこのことを主に祈り、うめき、泣いて訴えていますが、まだ主は

完全に聞き入れてくださっていません。しかも、これほど慎重に

注意しているのに、自分が一番忌み嫌っていて、避けたいと思うことを

してしまうことがあるのです。どうぞこれからも神のいつくしみに私を

ゆだねてください。」

 

 

同書71

「私は神、そして隣人への愛に燃えています。神父様、私がたびたび爆発

するのは、実にそのことが原因であることをどうか信じてください。

神が悪を見て悲しまれているのに、私も悲しまずにはいられるでしょうか?

 

ただ、そのように爆発するとき、私が魂の奥では何の動揺も変化も感じて

いないことを信じてください。私はひとえに、神の望まれることを自分も

望みたいという願望しか感じていないのです。私はキリストのうちにいます

から、外的にはかなり不穏なときも、少なくとも内的にはいつも平安です。」

 

 

天使は怒りではなく、熱くなるというのがあります(天界の秘義4164、

メモの『怒り』参照)。ピオ神父の怒りとはこの熱意のことだったのでしょう。

 

 

4.スウェーデンボルグとの一致

・「主は聖言を通して語られる」

 

スウェーデンボルグ以外の本を読んでいて、スウェーデンボルグに書かれている

ことと同じことが書かれているのを発見するとき、驚きとともに喜びを感じます。

ピオ神父の言葉にもいくつかありました。例えばこの「主は聖言を通して語られる」

という内容です。ピオ神父はこう言っています。

 

ピオ神父/魂の酸素17

「祈りおよび黙想では、私たちが主に語りますが、聖なる

読書においては、神のほうが私たちに語られるのです。

 

力の限り、この読書を大切にしなさい。そうすれば、

自分が霊的に新しくなってきていることに、すぐにでも

気づくでしょう。読書を始める前に、思いを主に上げて、

神ご自身があなたの思いを導き、心に語りかけ、

意志を動かしてくださるように願い求めましょう。」

 

 

スウェーデンボルグも色々なところで同じことを言っていたと

思いますが、例えば以下の通りです。

 

 

スウェーデンボルグ/聖書78

「主が人間のもとに現存されて、人間に連結されるのは、

聖言によるのである、なぜなら主は聖言であられ、

その中でその人間といわば話されるからである。」

 

新エルサレムの教義263

「聖言は記されたからには、主はそれにより人間に語られる(10290番)。」

 

天界の秘義6752[]

「モーセにより歴史的な聖言の方面の主が表象され、エリアにより予言的な

方面の主が表象されたため、それで主が御形を変えられたとき、

モーセとエリアとが主と話しているのが見られ(マタイ17・3)、

主の神的なものが世に現れたときは、聖言を表象した者たち以外には

何人も主と話すこともできなかったのである、なぜなら

主と話すことは聖言を通して為されるからである。」

 

ちなみにこの最後の引用文によれば、主は私たちに聖言を通じて語られる

のに対し、スウェーデンボルグやピオ神父などには、たびたび直接お話しを

されたようですが、彼らは特別な存在であり、モーセやエリアなどのように

聖言を表象している者、すなわちまさに預言者なのではないかと思います。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P251

 

‘87・6・19

 

ヴァッスーラ、行い、行いです、私は行いを見たい、我が傷を癒す膏薬

となる愛の言葉を聞かせてくれるのも 嬉しい、しかし あなたの行い

を見るならさらに悦ばせてくれる! 来なさい。 私が肉のうちにあっ

たとき 地上でどのように働いたかを思い出させよう、そして同

じやり方をするようにと どう弟子たちに教えてきたかを ♡

 

ピオ神父は、あなたのようでした。

 

この神父は私のために働いてくれた ♡ 私を尊び我が名を生き返らせ

るようにと あのすべての恵みを与えたのです ♡ 私の名によって働くことは 

私の誉れとなり あなたを清める、思い出すように、私は皆の上に輝いている。

 

私のような者の上にもですか?

 

そう、あなたのような霊魂も含めて ♡