日ユ同祖論
1.お宮参り
2.お正月
3.相撲
4.遷宮
5.お神輿
6.山車
1.お宮参り
民数記18・16
初子は、生後一か月を経た後、銀五シェケル、つまり一シェケル当たり二十ゲラの聖所シェケルの贖い金を支払う。
2.お正月
民数記28・16−18
第一の月の十四日は、主の過越である。
十五日は祭りの日である。あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる。 初日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。
3.相撲
創世記32・23−33
その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿(もも)の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。
「するとそこで一人の男が彼と組打ちをした」。これは真理の方面の試練を意味していることは『組打ちすること』の意義から明白であり、それは試練である。試練そのものは組打ちまたは格闘以外の何ものでもない、なぜなら真理は悪霊らにより攻撃され、その人間と共にいる天使たちにより守られるからである。この格闘を人間が認識することが試練である(741、757、761、1661、3927、4249、4256番)。しかしいかような試練もその人間が真理の善の中に、即ち、真理を愛する愛または情愛の中にいない限り、起ることは出来ない。なぜなら真理を愛しない者は、または真理により感動しない者は、真理を何ら意に介しはしないが、それを愛する者はそれが害されはしなかと不安を感じるからである。人間が真であると信じるものを除いては他の何ものも人間の理解の生命を生み出しはしないし、また人間が善いものとして自分自身に印刻したものを除いては何ものも彼の意志の生命を生み出しはしないのである、それで彼が真のものであると信じているものを攻撃されると、彼の理解の生命は攻撃され、彼が善いものとして彼自身に印刻したものが攻撃されると、彼の意志の生命は攻撃されるのであり、それで人間が試みられているとき、彼の生命は危機にさらされるのである。争闘の最初のものは真理の方面のものであり、または真理に関わるものであるのは、それが彼が第一次的に愛するものであり、たれであれその者の愛のものであるものが悪霊らにより攻撃されるが、しかしその人間が真理よりもさらに善を愛する後では―そのことは秩序が転倒するとき起るのであるが―かれは善の方面で試みを受けるからである。しかし試練の何であるかは僅かな者しか知っていない、それは現今では僅かな者しか試練を受けはしないためである、なぜなら信仰の善の中に、即ち、隣人に対する仁慈の中にいる者以外の者は一人として試みられることは出来ないからである。もしこの仁慈の中にいない者が仮にも試みられるなら、その者は直ぐさま屈服し、そして屈服する者は悪を確認し、誤謬を確信するのである、なぜならそのようにしてその者らが共に結合する悪霊らはそのときその者らの中にあって屈服するからである。このことが現今では僅かな者しか霊的な試練へ入れられはしないで、ただ単に何らかの自然的な心労にのみ入れられるが、その自然的な心労にのみ入れられるのは、そのことによって彼らが自己をまた世を愛する愛から引き出されるためであり、もしそうした心労がないなら、彼らは抑えられはしないでその愛へ突入してしまう理由である。
申命記8・1−10
今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたたちを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足があれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。
出エジプト25・10−16
アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。
民数記10・33
ヨシュア3・1−3
ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した。三日たってから、民の役人は宿営の中を巡り、民に命じた。「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。
サムエル記上6・7−8
今、新しい車一両と、まだ軛をつけたことのない、乳を飲ませている雌牛二頭を用意しなさい。雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して小屋に戻しなさい。主の箱を車に載せ、賠償の献げ物として主に返す金の品物を箱に入れ、傍らに置きなさい。それを送り出し、行くがままにしなさい。
サムエル記下6・2−5
ダビデは彼に従うすべての兵士と共にバアレ・ユダから出発した。それは、ケルビムの上に座す万軍の主の御名によってその名を呼ばれる神の箱をそこから運び上げるためであった。彼らは神の箱を新しい車に載せ、丘の上のアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子ウザとアフヨがその新しい車を御していた。彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を載せた車を運び出し、アフヨは箱の前を進んだ。ダビデとイスラエルの家は皆、主の御前で糸杉の楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルを奏でた。