人間天使

 

 

1.主から善を受ける者は人間天使

2.外の形ではさほど美しくない他の者の中では、その霊は形も均斉がとれて、美しく、天使然としているのを見た

3.人間の霊も、天使から見られる時は同じであって、もし善であるなら、その善に従って美しい、人間として現れる

4.教会の人間はその心に属する内部の方面では天使である

5.何人も天使の性質を世から携えて行かない限り、天使にはならず、または天界に入らない

6.霊と呼ばれている人間の内なる部分は、その本質では天使

7.人間のもとに神を愛する愛と隣人を愛する愛があり、従って善と真理とを求める愛があり、また公正で尊いものを愛する愛があるなら、その時はその人間は、その外なる形ではいかように見えても、死後生きるその霊の方面では天使

 

 

 

 

1.主から善を受ける者は人間天使

 

 

天界と地獄57

 

 天界について言われることは教会にも言うことが出来よう、なぜなら教会は地上の主の天界であるから。そこにはまた多くの教会が在って、その各々は教会と呼ばれているが、実際、それが愛と信仰の善に支配されている限り、教会である。ここにもまた主は色々な部分から一つのものが作り出され、引いては多くの教会から一つの教会を作り出されている。教会全般について言われることは、また個別的に教会人にも言うことが出来よう、即ち、教会は人間の中に在って、その外には無く、主がその中に愛と信仰との善によって現存されている者各々が教会である。天界を宿している天使に言われることはまた、教会を宿している人間にも言うことが出来よう。即ち、彼は、天使が最小の形の天界であるように、最小の形の教会であり、更に、教会を宿している人間は、天使と同じく、天界である。なぜなら人間は天界に入って、天使となるように創造されており、それ故主から善を受ける者は人間天使であるから。人間が天使と共通に持っているものは、人間の内部は天使の内部のように天界の映像(イメージ)に応じて形作られているということであり、また人間は愛と信仰との善にいるに応じて天界の映像となるということである。人間はさらに以下のものを持っている。即ち、人間の外部は世の映像に応じて作られており、人間は善にいるに応じて、彼の中の世は天界に服従して、天界に仕えており、かくて主は彼の二つのものの中に、天界に現存されておられるように現存されている。なぜなら神は秩序であられるため、主は凡ゆる所の主の神的秩序の中におられるからである。

 

 

 

 

神の愛と知恵129

 

 ここに天使について、また彼らが太陽としての主に向くことについて言われることは凡て、人間の霊についてもまた理解されねばならない。なぜなら人間は、その心の方面では霊であり、もし彼が愛と知恵にいるならば、天使であり、従って死後、自然界から取得したその外的なものを脱ぎ去ったときは、霊または天使になるからである。そして天使はその面を絶えず東方の太陽に向け、かくて主に向けているため、主から来る愛と知恵にいる者には凡て、『彼は神を見まつる』『彼は神に目を注ぐ』『彼は神をその眼前におく』と言われ、それにより彼は天使のように生きていることが意味されている。こうした事柄が世に言われるのは、それが実際天界と人間の霊の中に生じる(existunt
からである。誰が祈るとき、たとえその顔は何処の方位に向いていようとも、己が前に神を見上げないであろうか。

 

 

 

 

 

 

2.外の形ではさほど美しくない他の者の中では、その霊は形も均斉がとれて、美しく、天使然としているのを見た

 

 

天界の秘義99

 

しかし人間の身体の凡ての物は天界の凡ゆる物に相応しているけれど、人間はその外なる形の方面で天界の映像ではなく、内なる形の方面で天界の映像である。なぜなら人間の内部が天界を受け入れ、その外部は世を受け入れるからである。それゆえその内部が天界を受け入れるに応じて、人間はその内部の方面で益々巨大人の映像に従った最小の形の天界となるが、しかしその内部が天界を受け入れないに応じて、かれは天界でなくなり、また巨大人の映像でもなくなる。しかも世を受け入れる彼の外部は、形では世の秩序に従って、多様な美を持つことが出来るのである。なぜなら身体に属する外側の美は、その原因を、両親から、また胎内の形成から得、後には世からの共通の流入により維持されるからである。ここから人間の自然的な形はその霊的な人の形とは非常に異なっている。人間の霊の形のいかようなものであるかが時として私に示されたことがあるが、外面では可憐で美しい者の中に、その霊は不具で、黒くて、怪物然としており、天界の映像どころか、地獄の映像と呼んでもいい程になっていたが、外の形ではさほど美しくない他の者の中では、その霊は形も均斉がとれて、美しく、天使然としているのを見たのである。そして死後人間の霊は、それが身体の中で世に生きていたとき、その身体の中で持っていたままの形をもって現れるのである。

 

 

 

 

3.人間の霊も、天使から見られる時は同じであって、もし善であるなら、その善に従って美しい、人間として現れる

 

 

天界と地獄131

 

天界の光は神的真理であるため、この光はまた神的知恵と理知である、それで天界の光の中へ挙げられる[高揚される]ことにより、理知と知恵の中へ挙げられて、明るくされることと同じことが意味されている。この理由から天使たちの光はその天使たちの理知と知恵と全く同じ度にある。天界の光は神的知恵であるため、その光の中では凡てのものの性質は知られ、各々の者の性質はそのあるがままにその者の顔の中に明らかに示されていて、いかに小さなことでも隠されはしない。内的な天使たちはまた、善以外には何一つ欲していないため、自分たちの凡てのものが明らかにされることを愛している。天界の下にいて、善を欲しない者たちはそうではない、彼らはその[善を欲しないという]理由から天界の光の中に見られることを非常に恐れている。そして驚くべきは、地獄の者らは互に人間として相手には現れているが、天界の光の中では、凄まじい顔と形を持った怪物として、彼ら自身の悪の形そのものとして現れているのである。人間の霊も、天使から見られる時は同じであって、もし善であるなら、その善に従って美しい、人間として現れるが、もし悪であるなら、その悪に従って醜い、怪物として現れる。ここから凡ての物は天界の光の中に明らかにされ、このことは天界の光は神的真理であることによっていることが明らかである。

 

 

 

 

4.教会の人間はその心に属する内部の方面では天使である

 

 

神の愛と知恵118

 

(前の77−82に示されたように)神的なものは最大な物にも最小の物にも同一である以上、天使について今述べられたことは天界にも言われる。天使と天界に言われることは人間と教会にも言われる。なぜなら天界の天使と教会の人間とは連結を通して一つのものとして活動し、教会の人間はその心に属する内部の方面では、天使であるから。教会の人間により教会がその中に在る人間が意味されている。

 

 

 

天界の秘義784

 

 最古代教会の状態は彼らが天界と内なる交流を持ち、かくて天界を通して主との交流を持っている程のものであった。彼らは主に対する愛の中にいたのである。主に対する愛の中にいる者は天使のようであって、ただ身体を着けている点が異なっているに過ぎないのである。彼らの内部は覆いを取られ、主からさえも開かれていた。しかしこの新しい教会は異なっていた。彼らは主に対する愛の中にはいないで、信仰の中におり、信仰を通して隣人に対する仁慈の中に居たのである。こうした者は最古代の人のように内なる交流を持つことは出来ないで、外なる交流をもっているのである。

 

 

 

 

5.何人も天使の性質を世から携えて行かない限り、天使にはならず、または天界に入らない

 

 

神の摂理60

 

「無限で永遠な者との類似は天界に存在している」。天使たちの天界につき多少知っておくことは大切である。なぜなら凡て宗教的な人間はそれについて考え、そこに行こうと願うからである。しかし天界に通じる道を知って、その中を歩む以外には何人も天界に到達することは出来ない。この道は天界を構成する者たちの性格から多少知ることが出来、また何人も天使の性質を世から携えて行かない限り、天使にはならず、または天界に入らない事実からも多少知ることが出来よう。このことはその道を歩むことによってその道を知ってそこを歩むことを予想している。また霊界には、天界の凡ゆる社会と地獄の凡ゆる社会に通じている道があり、各自はいわば、本能的に己が道を見るのである。彼が己が道を見ることは凡ての愛に相応した道があるという事実に起因しており、愛はその道を開き、彼を彼自身に似た者の許へ導いて行くのである。何人も自分の愛に相応しない道は見ない。それゆえ天使は天界の愛以外の何ものでもないことが明白である。なぜならもしそうでないなら、彼らは天界に至る道を見ないからである。しかし天界について述べることによりこのことは更に明らかとなるであろう。

 

 

 

 

6.霊と呼ばれている人間の内なる部分は、その本質では天使

 

 

天界と地獄314

 

このことから、霊と呼ばれている人間の内なる部分は、その本質では天使であり(57参照)、それが地的な身体から開放されると、天使と等しく、人間の形をもって存在することが明白となるであろう。

 

 

 

 

7.人間のもとに神を愛する愛と隣人を愛する愛があり、従って善と真理とを求める愛があり、また公正で尊いものを愛する愛があるなら、その時はその人間は、その外なる形ではいかように見えても、死後生きるその霊の方面では天使

 

 

天界の秘義6872〔2〕

 

 愛から神的なものを認識し、承認することの何であるかを話さなくてはならない。人間各々の性質はその愛から知られるのである、なぜなら愛は各々の者の生命の存在であり、そこから生命そのものが発出しているからであり、それで人間の愛の如何にその人間が応じているのである。もし自己と世を求める愛があり、従って復讐、憎悪、残酷、姦淫といったものを求める愛があるなら、その人間は、その外の形ではいかように見えても、その霊の方面では、または死後生きる内的な人の方面では悪魔である。しかし人間のもとに神を愛する愛と隣人を愛する愛があり、従って善と真理とを求める愛があり、また公正で尊いものを愛する愛があるなら、その時はその人間は、その外なる形ではいかように見えても、死後生きるその霊の方面では天使である。しかし主のもとにのみ存在した神的な愛〔神の愛〕がそのもとに存在した方は神であられ、かくて主が、その生命の存在であるその父の愛をその人間的なものの中に受け入れられた時、その人間的なものは神的なものとされたのである。この凡てから愛から神的なものを認識し、承認することにより意味されていることを認めることが出来よう。