ニケア会議

1.ニケア会議

 

 

 

1.ニケア会議

 

真の基督教176

 

ニケヤ会議の終わった時、主がその弟子達に、「日は暗く、月はその光を発たず、星は空より隕ち諸々の天の権能は震い動かん」(マタイ24・29)と予言し給うた事柄が生じたと天界に語られている。事実、使徒的教会は空に現れた新しい星のようであったが、然し二回のニケヤ会議の後では、天文学者の観察に従えば、時折自然界に起こる様に、その同じ星が暗くなって千々に砕け散ったようになったのである。

 

 

真の基督教177

 

ニケヤ及びアタナシウス信条の三一性から全基督教会を歪めた信仰が生じた。

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP54

 

 主の人間的なものを神的なものから分離することはニカヤ会議において、法王のためになされたのであり、法王が地上の神と呼ばれるためであったのである。

 

 

真の基督教338

 

使徒たちの信仰は主イエス・キリストに対する信仰であったことは、かれらの書簡の多くの記事によって明白である。その中から私は以下のもののみを引用しよう。

 

「もはやわれ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉体にありて生くるは我を愛して我がために己が身を捨てたまいし神の子を信ずるに由りて生くるなり」(ガラテヤ2・20)。

 

パウロは「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔改めとわれらの主イエス・キリストに対する信仰を」証した(使徒20・21)。

 

「彼パウロを連れ出して言う、君らよわれ救われん為に何をなすべきか。彼言う、主イエスを信ぜよ、然らば汝も汝の家族も救われん」(16・30、31)。

 

(中略)

 

 

彼等の信仰はイエス・キリストに対するものであり、且つ彼によって鼓吹された故、彼等は上述の如く(ガラ2・16)また以下の記事におけるが如く、これをイエス・キリストの信仰と呼んだのである。

 

「イエス・キリストを信ずるによりて、凡て信ずる者に与えたまう神の義なり。これイエスを信ずる者を義としたまわんためなり」(ロマ3・22,26)。

 

「キリストを信ずる信仰による義すなわち信仰に基づきて神より賜る義を保ち」(ピリピ3・9)。

 

「これは神の誡命とイエスを信ずる信仰とを守る者なり」(黙示録14・12)。

 

「キリスト・イエスを信ずる信仰によりて」(テモテ後書3・15)。

 

「キリスト・イエスにありては、ただ愛によりてはたらく信仰のみ益あり」(ガラテヤ5・6)。

 

これらの記事はパウロのかのしばしば繰返される記事、「されば我らは思う。人の義とせらるゝは律法の行為によらず、信仰に由るなり」(ロマ3・28)の信仰の意味を示している。

 

すなわち、それは父なる神に対する信仰ではなくその御子に対する信仰であり、ましてそれは三人の神―その中の一人からその中の他の一人のために、しかしてその中の第三の者を通して救いが来る―に対する信仰でないことを示している。教会はその三人格的信仰がパウロによりこの記事に意味されていると信ずるのは、ニカヤ会議以来、これが真の信仰、唯一可能の信仰として認められ、それ故、「信仰」なる語が新約聖書に用いられる時は常に、三人格的な信仰が理解され凡ゆるものがこれに一致させられているからである。その結果、救い主なる神に対する信仰である唯一の救う信仰は滅び、多くの虚偽と荒唐無稽な逆理が教会の教義に忍び入ったのである。

 

何故なら、天界または救いに至る道を教え、これを指示する教会の教義は凡て信仰に依存するからであり、凡てこれらの虚偽と逆理が信仰に入り込んだために、理解は信仰に従属しなくてはならないという教理が布告された。

 

しかし上述のパウロの引用文(ロマ3・28)の「信仰」はその書簡の後続の部分から、またガラテヤ書の類似の記事(2・14,15)から明白であるように、父なる神に対する信仰ではなく、子なる神に対する信仰を意味し、「律法の行為」は十誡の行為ではなく、ユダヤ人に与えられたモーゼの律法の行為を意味しているのである。かくして現今の信仰の基礎は崩壊し、その上に建てられた神殿は屋根のみが表面に現れている家の如く地に沈んでしまったのである。

 

 

真の基督教637

 

凡ゆる基督教徒は、その原始時代には、主イエス・キリストは神であり、主御自らの明白な言葉に従い(マタイ28・18、ヨハネ17・2)、主には天と地とまた凡ゆる人間とを支配する一切の権能が与えられていることを認め、而して主が父なる神によって語り給うた命令に従って(ヨハネ3・15、16、36、6・40。11・25、26)、主を信じたのである。而して上述したようにニカヤ会議は、処女マリヤから生まれ給うた救い主なる主の神性を否定したアリウスとその追随者等を聖書によって反駁し、罪に定めたのであった、しかし、彼らは、諺にあるように、カリブデスの渦巻を避けようとしてスキラの岩の犠牲となったのである。何故なら、かれらは降って人間の性質を取り給うたところの永遠から存在する神の子を工案することによって、主の神性を擁護したからである。彼らは宇宙の創造者なる神自らが贖罪者となり、かくして今一度創造者となり給うために世に降り給うたことを知らなかったのである。(イザヤ25・9、40・3、5,10,11。43・14。44・6、24。47・4。48・17。49・7、26。60・16。エレミヤ50・34。ホセア13・4。詩篇19・14。ヨハネ1・14を参照)。

 

 

真の基督教638

 

使徒的教会は主イエス・キリストとその中にいます父なる神とを礼拝した。それ故、それは神の園に、アリウスは地獄から遣わされた蛇に、ニカヤ会議は夫に果実を差し出し、夫を説きつけてこれを食わせた妻に譬えることが出来よう。彼らはこれを食った後、己が裸かを見、これを無花果の葉で蔽った、その裸かは彼らの以前の無垢を意味し、無花果の葉は、徐々に虚偽化された自然的な人の諸々の真理を意味する。原始教会はまた暁に、早朝に譬えることが出来よう。しかし、十時に厚い雲が起こり、全地を暗くし、遂に夜が来た。その時月が昇り、その光は或る者に聖言に関する部分的な理解を与えたが、他の者は絶えず深まって行く暗黒に昏み、遂に「イエス・キリストの中には神性の完全性は尽く身体をなして宿れり」(コロサイ2・9)とのパウロの宣言と「世に遣わされ給ひし神の子は真の神にして永遠の生命なり」(第一書5・20、21)とのヨハネの宣言にも拘らず、主の人間性の中に、神性を何ら認めることは出来なくなったのである。使徒的教会は、心に三人の神を礼拝し唇を以って一人の神を拝し、仁慈を信仰から切り離し、罪の赦しを悔い改めと新しい生活の追求から切り離し、霊的な事柄に於ける全的な無力を主張する教会を些かも予見することは出来なかった。彼らはアリウスのような者が起こり、死んだ時すらも、秘かにその感化を揮いつづけるであろうことを、些かも予見しなかったのである。

 

 

真の基督教639

 

キリストの功績を転嫁する信仰は非聖書的である。このような信仰は、ニカヤ会議が永遠から存在する三人の神的人格の教理が導き入れる迄は、教会に知られておらず、而してこの信仰が導き入れられ、全基督教界に行き渡った時、他の信仰は凡て日蔭に追いやられたのである。それ故聖言の中に信仰、キリストの功績の転嫁にかかわる記事を読む者は、自らが最も重要なものとして認めているところの教義に従ってこれを解釈するのである。彼はただ一箇所に記されている物を眺め、そこに止まり、その頁をめくって後に記されている物を眺めない者に似ており、あるいは或る虚偽が真理であると自らに得心させ、その後その誤ったものを真のものとして、真のものを誤ったものとして眺める者に似ている。彼はかくして、それに反対する者を頑強に否定し、「君には分らない」と素気なく語るのである。彼の心は理性に対して無感覚であり、彼の所謂正統的な見解に抵触するものは凡て異端として斥ける。

 

 

真の基督教597

 

ニケア会議以来、三人の神を信じた者は凡て、霊的な試練を受けることは許されていない。何故なら、彼はその場合直ちに屈服するであろうし、かくして地獄にさらに深く陥るからである。現今の信仰に先立つと言われる痛悔は試練ではない、私はこの点について多くの者に尋ねると、彼らはそれは無意義な言葉であるか、あるいは恐らく単純な人々が地獄の火を考える時、感ずる神経的な不安に言及するものであろうと語ったのである。