ナフタリ
天界の秘義3928
なぜならかれらは『争うこと[格闘すること]』から『ナフタリ』と名づけられたからである。ここからまたナフタリにより教会のこの第二の全般的な真理が表象されている、なぜなら内なる人と外なる人とは互に離反しているが、試練により一致し、相応するため、試練は内なる人が外なる人と連結する手段であるからである。
天界の秘義3928[2]
再生以前は自分の自然的な人の歓喜は奈落的なものではない、それは悪魔的な霊らにより取りつかれてはいないと信じている者は非常に誤っており、人間の実情はいかようになっているかを知ってはいないのである、すなわち、再生以前にかれは他の凡ての人間のようなものであるとかれ自身にいかほど思われるにしても、かれはその自然的な人の方面では魔鬼と奈落の霊らにとりつかれているのであり、たとえかれは他の者とともになって聖いものの中にいて、信仰の諸真理と諸善とについて論じ、実にかれ自身はそれらのものを確認しているといかほど信じていようとも、それでももしかれがかれの職業において公正で公平なものを求める情愛を、また交際と生活において真理と善を求める情愛を何らその者自身の中に認めないなら、その者の歓喜は奈落の者らのそれであることを知らなくてはならない、なぜならその中には自己と世を求める愛以外の愛は存在してはおらず、その愛がかれの歓喜を作っているときは、その中には仁慈もなく、その信仰もないからである。この歓喜が圧倒的なものになった後では、それは、前に示したように、『ダン』により意味されている第一の手段であるところの、信仰の聖いものと生命の善とを肯定し、承認するといる手段以外のいかような手段によっても死滅はしないし、消滅はしないのであり、次に、第二の手段であり、ナフタリによって意味されているところの試練以外のいかような手段によっても死滅はしないし、消散はしないのである、なぜならその第二の手段は第一の手段の後につづいているからである、なぜなら信仰と仁慈の善と真理を肯定し、承認しない者らは自然的な歓喜により説きつけられる悪と誤謬とに抵抗するものが何一つ内に存在していないため、いかような試練の争闘にも入ることができないからである。
天界の秘義3928[3]
『ナフタリ』の名が言われている聖言の他の所には試練の後の人間の状態が意味されている、例えば当時イスラエルと呼ばれたヤコブの予言の中には―
ナフタリは自由にされた雌じかであり、優雅な言葉を与える(創世記49・21)。
ここの『自由にされた雌じか』は試練の後に存在するところの自由な状態における自然的な真理に対する情愛を意味しており、その状態はまた『ナフタリ』により意味される試練の中に存在する性質である、なぜなら試練においては争闘は自由にかかわるものであるからである。モーセの予言の中でも同様であり―
ナフタリにかれは言った、ナフタリは恵みにも満ち足り、エホバの祝福に満ちている、かれは西と南とを得るであろう(申命記33・23)
なぜならヤコブの息子たちと種族の表象しているものはその名が言われている順序[秩序]に順応しているからである(3862番)。またデボラとバラクの予言には―
ゼブルンはその魂を捧げて死んだ民、ナフタリは野の高い所の上にいる(士師記5・18)
ここにもまたその内意には試練の争闘がとり扱われており、その人間は諸真理と諸善の中にいるため、悪を何ら怖れない者たちの中におり、そのことが『野の高い所の上に』いることである。