中山みき

1798〜1887

 

 

ほこり(埃)・・・をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、

うそとついしょこれきらい

自由自在(じうようじざい)

用木(よふほく)

 

逸話

 

 

 

 

 

 

ほこり(埃)・・・をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、

うそとついしょこれきらい

 

天理教経典P68

このほこりの心遣いを反省するよすがとしては、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ、又、「うそとついしょこれきらい」と戒められている。

 

 

 

 

自由自在(じうようじざい)

天理教経典P66

自由自在は、何処にあると思うな、めんめんの心、常々に誠あるのが、自由自在という。

 

 

 

用木(よふほく)

おふでさき3・131、天理教経典P86

にちにちによふほくにてわ ていりする どこがあしきとさらにおもふな

(日々に用木にては 手入れする どこが悪しきとさらに思うな)

 

 

逸話

 

藤井明男著/『出会いに包まれて』/善本社/P209

 

天理教の初期の先生の中に、加見平四郎という人がある。兵四郎は、小さい時、母に捨てられ、父に捨てられて、たばこ製造屋へ丁稚奉公に出され、人生の苦労をイヤというほどなめて来た。

明治六年、兵四郎は、妻の難産から天理教に入信し、教祖中山みきに会い、

『神様は、陽気ぐらしをさせるために、人間をおつくりになったと聞かして頂きますが、兵四郎の今日までの生活は、苦労の連続でした。どうして、こんなにいじめ倒されたのでしょうか』と尋ねた。

その時、教祖は

『あんた、苦労したればこそ、神様が分かったやないか。神が分かれば、これから、どれだけ大きくなるや分からんで、神のご用に使おうと思うなればこそ、苦労艱難させたのやで』と仰せられた。

兵四郎は、それ以後、熱心に布教し、たくさんの人を助けた立派な信仰者になった。

 

 

本稿 天理教教祖伝逸話篇75

<これが天理や>

 

明治12年秋、大阪の本田に住む中川文吉が、突然眼病にかかり、失明せんばかりの重態となった。隣家に住む井筒梅治郎は、早速おたすけにかかり、三日三夜のうちに、鮮やかな御守護を頂いた。翌13年のある日、中川文吉は、お礼詣りにお屋敷に帰らせて頂いた。

 教祖(おやさま)は、中川にお会いになって、

「よう親里を尋ねて帰って来なされた。一つ、わしと腕の握り比べをしましょう。」

と、仰せになった。

日頃力自慢で、素人相撲の一つもやっていた中川は、このお言葉に一寸苦笑を禁じ得なかったが、拒むわけにもいかず、逞しい両腕を差し伸べた。すると、教祖は、静かに中川に左手首をお握りになり、中川の右手で、御自身の左手首を力限り握り締めるように、と仰せられた。

 そこで、中川は、仰せ通り、力一杯に教祖のお手首を握った。と、不思議な事には、反対に、自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛さを感じたので、思わず、「堪忍して下さい。」と、叫んだ。この時、教祖は、

「何もビックリすることはないで、子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか。」

と、仰せられた。

 

 

本稿 天理教教祖伝逸話篇76

<牡丹の花盛り>

 

 井筒たねが父から聞いた話。井筒梅治郎は、教祖(おやさま)が、いつも台の上に、ジッとお坐りになっているので、御退屈ではあろうまいか、とお察し申し、どこかへ御案内しようと思って、「さぞ御退屈でございましょう。」と、申し上げると、教祖は、

「ここへ、一寸顔をつけてごらん。」

と、仰せになって、御自分の片袖を差し出された。それで、梅治郎がその袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りであった。ちょうど、それは牡丹の花の季節であったので、梅治郎は、教祖は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と思って恐れ入った。