ミデアン

 

 

天界の秘義3242

 

信仰の真理の中にいる者たち

 

天界の秘義3242[2]

 

それで信仰の真理の中におり、しかも生命の善の中にいる者たちは『ミデアン』と呼ばれる者たちであり、かれらが生きている規準となっている真理は『ミデアンの息子たち』である、信仰の真理の善に連結した信仰の真理の中にいる者たちは、『ミデアン』であるように、それに対立した意義では生命の善を持たないために誤謬の中にいる者もまた『ミデアン』であり、

 

 

天界の秘義4756

 

単純な善の真理の中にいる者たち(3242)

 

 

天界の秘義6773

 

「ミデアンの地に住み」。これは単純な善の中にいる者たちの間における生命を意味していることは以下から明白である、即ち、『住むこと』の意義は生命であり(1293、3384、3613、4451、6051番)、『ミデアン』の意義は単純な善の諸真理にいる者たちである(3242、4756、4788)。

 

 

天界の秘義6774

 

「井戸のそばに住んだ」。これはそこで聖言を研究したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『住むこと』の意義は生命であり(そのことについてはすぐ前の6773番を参照)、ここでは生命の研究であり、『井戸』の意義は聖言である(2702、3424番)。聖言は時には『井戸』と呼ばれ、時には『泉』と呼ばれているが、『井戸』と呼ばれている時は聖言の文字の意義が意味され、『泉』と呼ばれている時は、聖言の内意が意味されているのである(3765番を参照)。彼がここに『井戸のそばに住む』と言われているのは、聖言の文字の意義が意味されているためである、なぜならそれが、ここの内意に取扱われているところの、再生しつつあって、真理の神的なものへ進みつつある者たちにおける最初の意義であるからである。ここに『ミデアン』により意味されているところの、単純な善の諸真理の中にいる者たちもまた文字の意義以外のものは顧みないのである。

 

 

天界の秘義6775

 

かくて『ミデアン』の祭司は七人の娘を持っていた」により、単純な善の諸真理の中にいる者たちにおける教会の聖い事柄が意味されているのである。教会の外なるものの中にいて、各々その理解に応じ、単純に聖言をその文字の意義の方面で信じ、またその信じていることに従って生き、かくて善の中に諸真理から得ているその性質に従っている者たちは単純な善の中にいると言われている。教会の内なるものは彼らのもとへ善を通して流れ入っているが、しかし彼らは内的な真理にいないため、流れ入ってくる善は全般的なものとなり、かくて明確でないものとなっている、なぜなら霊的な光はそこでは、個々のものへ流れ入ることは出来ないで、かくて事物を明らかに明るくすることが出来ないからである。他生ではこうした性格を持った者たちは諸真理から発した善の性質に従って天界を与えられている。こうした者たちがここの『ミデアン』により意味されている者たちであるが、しかしその本来の意義では、彼らは教会の外にいて、その宗教に従って善の中に生きている人々である。

 

 

天界の秘義6779

 

「すると羊飼いらが来て、彼らを追い払った」。これは悪の中にいる教師らが対抗したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『羊飼い』の意義は、教えて仁慈の善へ導く者であり(343、3795、6044番)、ここでは、教えはするが、自分が悪の中にいるため、仁慈の善へは導きはしない者であり(そのことについては今後述べよう)、『追い払うこと』の意義は対抗することであり、彼らから追い払われた者たちである『娘』の意義は教会の事柄である(そのことについては前の6775番)。『羊飼い』によりここでは、教えはするが、自分が悪の中にいるため、仁慈の善へ導きはしない者らが意味されている。なぜなら悪の中にいる者らは仁慈とその業とが救いに寄与することを決して承認しないからであるが、それは彼らは彼らの生命に反したことを、それが彼ら自身に反しているため、承認することが出来ないためである。そして彼らは悪の中にいるため、仁慈の何であるかを知りさえもしておらず、それでまた仁慈の業の何であるかを知りさえもしていないのである。彼らは信仰を教え、信仰により義とし、またそれによって天界を約束している。これらの者が聖言から発している仁慈の教義に対抗する者らであり、従って単純な善の真理の中にいる者たちに対抗する者らであり、この単純な善の中にいる者たちが『ミデアンの祭司の娘たち』により意味されており、この娘たちを、彼らが羊に飲ませるため、水を汲み、水桶に満たした後でその羊飼いらが追い払ったのである。