それを失い、わたしのために命を失う者は、
かえってそれを得るのである
マタイ10・39
マタイ10・39
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
[Z]「真の悔改めは、単に、自分の生活の行為のみではなく、更に自分の意志の意図をも点検することである。」
真の基督教532
その理由は理解と意志はその行為の原因であるからである。何故なら、人間は思考から語り、意志から行動し、それ故、言葉は思考を表現し、行動は意志を表現するからである。それ故、身体が罪を犯す時に、それと同時に意志と思考とが罪を犯すことが推論される。身体によって犯された諸々の悪を悔改め、しかもなお悪を思い、これを欲することが可能である。然し、これは有害な木を切り倒してその根を残しておくようなものであって、その根から木は再び成長して繁茂するのである。然し、その根が抜き取られる時は異なり、これは、単に自らの行為のみでなく更に自らの意図を点検し、悔改めによって諸悪を除去する時為される。人間は自らの思考を点検することによって自分の意志の意図を点検する。なぜなら、意図はそれ自らを思考の中に表現するからである。それ故、思考は、人間が復讐を、姦淫を、窃盗を、偽りの証を、神と、その聖なる言と、教会に対する冒涜等を企てているか否かを明示するのである。若し、彼が法律と名声失墜との恐怖が無ければ自分はこれらの悪を為す傾向を持つことを知り、しかもそれらは罪であるという理由から、それを為さないと決意するならば、その時彼は真に、且つ、真面目に悔改めているのである。これは、彼がそれらの悪の誘惑を感じ、しかも何ら外的の抑制物を受けない時に、その悪に抵抗し、そこから遠ざかるならば、特に真実なものである。彼が耐え忍ぶならば、悪しき意志の諸々の快楽は遂に忌むべきものとなり、最後に地獄へ還される。これは主が、「誰にても己が生命を得んとする者はこれを失い、我がために生命を失う者はこれを得べし」(マタイ10・39)と語り給うた際意味し給うた所である。かくの如く悔改めによって己が諸々の悪を除去する者は、救い主に在す主なる神によって播かれる種子が手入れの良く行き届いた地を得て、穀物を産み出すために、悪魔によって播かれた毒麦を、適当な時期に抜き取る人に似ている(マタイ13・25−31)。
天界の秘義7166
天界の秘義9050[12]