主よ、まず、父を葬りに行かせてください
マタイ8・21
マタイ8・21−22
ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
ルカ9・59−60
そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
天界の秘義3703[7]
すべてこれらの記事には、文字の意義では、『父と母』により父と母が意味されているが、しかしその内意では善と真理が意味され、その最高の意義では神的善と神的真理との方面の主が意味されているのである。このことは主御自身もまたマタイ伝に教えられるところである―
イエスはその両手を弟子たちにのばされて言われた、見なさい、わたしの母を、わたしの兄弟たちを、たれでも天におられるわたしの父の御意志を行う者は、その者こそ、わたしの兄弟、姉妹、母である(12・49)。
さらに―
あなたたちは先生[師]と呼ばれてはならない、あなたたちの先生は一人であり、キリストである、あなたたちはすべて兄弟である。地上であなたたちの父と呼んではならない、あなたたちの父は一人であられ、かれは天におられるからである(23・8,9)。
地上で先生[師]と呼ばれ、父と呼ばれることがここに禁じられているのではなく、禁じられていることは主以外の父をたれか心で承認することであり、すなわち、『先生』『父』と言われるとき、主が理解されなくてはならないのであって、主がかれらによりその最高の意義の中に意味されているのであり、このことは天的な人であった最古代の人々について前に言われたことに応じているのである(3702番)、すなわち、何であれかれらが地上で認めたものはことごとくかれらには主について考える手段となったのである。
天界の秘義3703[8]
これに似たことが主がその弟子たちの一人に話されたことに含まれている。その者は言った―
主よ、先ずわたしに行って父を葬ることを許して下さい。しかし、イエスはかれに言われた、わたしに従ってきなさい、死んだ者に死んだ者を葬らせなさい(マタイ8・21、22)。
なぜなら地上の父は天の父または主に対しては、生きている者に対する死人のようなものであるからである。かくて両親を敬うことにかかわる律法そのものは、その中に主に対する尊敬、礼拝、愛がないかぎり、いわば死んだものである。なぜならかの律法はこの神的律法から下降しており、そこからその律法の中に真に生きているものが発しているからであり、それで主は、『わたしに従ってきなさい、死んだ者に死んだ者を葬らせなさい』と言われたのである。そのこともまたエリアがエリシャに言ったことにより意味されているのであるー
エリアはエリシャの傍を過ぎて、彼の上に彼のマントをかけた、かれはその雄牛を残して、エリアの後から走って言った、どうか私に私の父と母に接吻させてください。その後で私はあなたに従いましょう。彼は彼に言った、またかえりなさい、わたしはあなたに何をしましたか(列王記上19・19,20)。
エリアにより主が表象されたことは前に見ることが出来よう(第18章序言と2762番)。
天界の秘義6138
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々/U P137