わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、

岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている

マタイ7・24

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

 

 

1.聖書

 

マタイ7・24−27

 

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。

 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

 

 

ルカ6・46−49

 

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義9239

 

人間は神を信じることについて、また神から発している事柄を信じることについて話している。神を信じることは救う信仰であるが、しかし神から発している事柄を信じることは前のものがなくては救いはしない信仰である。なぜなら神を信じることは知って行うことであるに反し、神から発した事柄を信じることは知るが、未だ行わないことであるから。真に基督教徒である者たちは知りもし、行いもし、かくて神を信じるが、しかし基督教徒でない者らは知っても行いはしない。これらの者は主から『愚か者』と呼ばれているが、しかし前の者は『慎重な者[賢明な者]』と呼ばれている(マタイ7・24,26)。

 

 

啓示による黙示録解説36

 

 仁慈が存在しないなら、信仰は存在しないということについて今少しく語ってみよう。教会の教義的なものが信じられているかぎり、信仰は存在している、または信じる者は信仰を持っていると考えられているが、たんに信じることは信仰ではなく、信じられたことを欲し、行うことが信仰である。

 

 

神の摂理91

 

知恵から主を承認することは、本質的には知識に過ぎず、それは教義から発しており、愛から主を承認することは教義に従った生活から発して、これは結合を生むが、他方は現存を生むに過ぎない。主に関わる凡ての教えを軽蔑する者が主からから遠ざかる理由はこれである。彼らはまたこうした教えに従う生活を軽蔑するため、その信念のため主から分離する、一方教義は軽蔑しないが、それを生活で無視する者は、主の前にいるが、なお主から離れている。彼らは共に話し合ってはいるが、愛し合ってはいない友達同志のようなものであり、また二人の中一人は他の一人に友のように話してはいるが、これを敵として憎んでいるようなものである。このことは一般的に認められている、なぜなら正しく教え、正しく生きる者は救われるが、正しく教えはするが、邪悪な生活を送る者は救われないこと、また神を信じない者は救われることは出来ないことは良く知られているからである。これらの考察により、いわゆる信仰から主について考えるが、仁慈から行動しないことはいかような種類の信仰であるかが明らかである。それゆえ主は語られている『なぜ私を主よ、主よと呼んで、私の言うところを行わないのか。私に来て、私の言うところを聞き、これを行う者はすべて岩の上に基を据え、家を建てる者に似ているが、聞いて行わない者は基無しに家を地に建てる者に似ている』(ルカ6・46−49)。