もし、右の目があなたをつまずかせるなら、

えぐり出して捨ててしまいなさい

(マタイ5・29)

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.サンダー・シング

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ5・27−30

 

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義3863[10]

 

 さらに―

 

 もしあなたの目があなたを躓かせるなら、それをくじり出しなさい、二つの目を持っていて、火のゲヘンナに投げこまれるよりも、片目で生命に入る方があなたには良いからである(18・9)。

 

 この記事の中で『目』は目を意味してはおらず、またそれをくじり出してもならないことは明らかである、なぜなら目は躓かせはしないで、『目』により意味されている真理の理解が躓かせるからである(2701番)。信仰の諸真理を知り、把握し、しかも悪の生活を送るよりは、それらを知らないし、把握もしない方がまさっていることが、『二つの目を持って火のゲヘンナに投げ込まれるよりは、片目で生命に入る方が良い』ことにより意味されているのである。

 

 

天界の秘義8909[5]

 

マタイ伝の主の御言葉の中にもまた悪の欲念が『つまづかせる右の目』により意味され、誤謬の欲念が『つまづかせる右の手』により意味されているのである。

 

もしあなたの右の目があなたを躓かせるなら、それをくじり出して、投げ棄てなさい、あなたの肢体の一つが滅んで、全身がゲヘナに投げこまれない方があなたにはまさっているからである。もし右の手があなたを躓かせるなら、それを切り取り、投げ棄てなさい。あなたの肢体の一つが滅んで、全身がゲヘナに投げ込まれない方があなたにはまさっているからである(5・29,30)

 

 これらの言葉から主はいかように話されたかが、すなわち、聖言の他の凡ゆる所と同じく、神的なものから話されたことが再び明白であり、かくて主は内なる天界的な事柄を相応に従って外なる、または自然的な物により表現されたのであり、ここでは悪の情愛または悪の欲念を『躓かせる右の目』により、誤謬の情愛または誤謬の欲念を『躓かせる右の手』により表現されたのである、なぜなら目は信仰に、左の目は信仰の真理に、右の目は信仰の善に相応し、その対立した意義では信仰から生まれた悪に相応しており、かくて『躓かせる右の目』はその欲念に相応しているからである(4403−4421、4523−4534)。しかし手は真理に属した力に、右の手は善から発した真理の力に相応し、その対立した意義では悪から発した誤謬の力に相応し、かくて『躓かせる右の手』はその欲念に相応しているのである(3091、3563、4931−4937、8281番)。

 

『ゲヘナ』は欲念の地獄を意味している。たれでもこの記事には『右の目』により右の目が意味されてはおらず、目をくじり出すことも意味されておらず、また『右の手』により右の手が意味されてはおらず、それを切りとらなくてはならないことも意味されてはいないで、他の何かが意味されており、その何かは『目』により、とくに『右の目』により意味されていることが知られないかぎり、また『手』により、とくに『右の手』により意味されていることが、同じく『つまづきを与えること』により意味されていることが知られないかぎり知られることはできないのであり、これらの表現により意味されていることは内意によらなくては知られることもできないのである。

 

 

天界の秘義8909[6]

 

欲念は悪い意志から発し、かくて悪い心から発し、また意志からは、マタイ伝15・19の主の御言葉に従って、殺人、姦淫、私通、窃盗、偽証が発し、かくて十戒の前の戒めに含まれているようなものが発してくるため、それで『隣人のものであるそれらの物をむさぼらないこと』により、前の戒めに含まれている悪が意志のものとなって、現れてこないように警戒しなくてはならないことが意味されていると言ったのである。『隣人のものであるそれらの物をむさぼらないこと』により自己と世を求める愛を警戒しなくてはならないことが意味されていることは欲念の悪は凡てこれらの悪からそれをその源泉として発生しているためである(2045、7178、7255、7366−7377、7488、8318、8678番を参照)。

 

 

 

天界の秘義9051[2]

 

たれでも目のためにつまづいても、それをくじり出すべきではないことを、また何人も片目で神の国に入りはしないことを知っており、『右の目』により主にかかわる信仰の誤謬が意味されていて、これがくじり出されなくてはならないものなのである。

 

 

 

 

天界の秘義10061〔5〕

 

マタイ伝には―

 

 イエスは言われた、もし右の目があなたを躓かせたなら、それをくじり出して、あなたから投げ棄てなさい。もし右の手があなたを躓かせたなら、それを切り取って、あなたから投げ棄てなさい、あなたの手足の一つが滅んでも、全身がゲヘナに投げ込まれない方があなたにはまさっている(マタイ5・29、30)

 

 ここでは『右の目』は悪から発した誤謬の理解と信仰を意味し、『右の手』は悪から発した誤謬そのものを意味しているのである。たれでも『目』によりここでは目は意味されず、『右の手』によっても右の手が意味しているされていないことを、また躓かせる目をくじり出すべきではなく、躓かせる手を切り取るべきでもないことを知ることが出来よう、なぜならそうしたことからは人間に対する救いは何一つ生まれはしないからである。

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P323

 

またあるとき、多くのサードゥーが生活するリシケシのジャングルで数日間過ごしていたときに、わたしはガンジス河の岸辺に座る一人のサードゥーの周囲に大勢の人が群がっているのをみた。このサードゥーは片手を頭より高く上げていたので、遠くからは人々を祝福しているようにみえた。近づいてみると、この人の腕の骨はすっかり固まってしまい、下ろせなくなっていることがわかった。わたしは彼が説法を終えるのを待ち、それから腕の骨が固まった理由をたずねてみた。彼は、まるで敵を倒した軍人のように誇りをもっていった。

「わたしはこの手で多くのものを盗み、多くの人を殴ってきたが、ある日人生を根底から揺るがす激変を体験した。わしは古い人生を完全に離れて、この手を切断するか、あるいは役に立たないものにして罰することにした。わがグルー(師)に相談した結果、わしはこの腕が完全に乾ききりこの位置に固定されてしまうまで、頭よりも高く上げておくことにした。このことを誇りに思っている」

わたしは答えた。

「あなたの勇気とお気持ちには敬服しますが、残念なのはあなたが神から与えられた賜物を殺してしまったことです。腕を殺すより、それを人助けのために善用すべきだった。そうすれば、多少とも過去を償うことができたでしょうに。腕を殺すことではなく、他を助けるために正しく使うことにこそ本当の勇気と勝利はあるのです。わがグルー、イエス・キリストは“おまえの右手がつまずきを与えるなら、切って捨てよ”と言われましたが、その意味は“心の中の悪を切り捨てる”ということです」

 この話が終わるか終わらないかのうちに、相手は怒ってわたしに飛びかかろうとした。彼の手がもし使える状態にあったなら、きっとわたしに殴りかかっていたことだろう。それから、わたしは自分の体を痛めつけることの無意味さを丁重に話した。手に悪業を働かせてきた心の思いを変化させていれば、彼にとってどんなによかっただろうと思う。きっと、神の目的をはたしていたことだろう。