まず行って兄弟と仲直りをし、

それから帰って来て、供え物を献げなさい

マタイ5・24

 

 

 

 

マタイ5・21−24

 

あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい

 

 

 

生命73

 

主は聖言の多くの所で愛の善を教えておられる。主はそのことをマタイ伝に隣人と和解することについて言われていることによって教えられている―

 

もしあなたが祭壇に捧げものを捧げていて、そこであなたの兄弟が何かのことであなたを快く思っていないことを憶い出すなら、そこに祭壇の前にあなたの捧げものを残しておいて、行って、先ずあなたの兄弟と和解し、それから来て、あなたの捧げものをささげなさい。あなたはあなたの敵と道にいる間に、速やかに彼と和解しなさい、その敵があなたを裁判官に渡し、裁判官はあなたを役人に渡して、あなたは牢獄に投げ込まれないためである。まことにわたしはあなたに言う、あなたは最後の一厘も支払わない中は、そこから出てはならない(マタイ5・23−26)。

 

『自分の兄弟と和解する』ことは、敵意、憎悪、復讐を避けることであり、それはそうしたことを罪として避けることであることは明白である。主はまたマタイ伝で教えられている、

 

何であれあなたらが人からしてもらいたいと願うことはすべて人にもしなさい、これは律法と予言者であるから(マタイ7・12)。

 

 かくて私たちは悪を為してはならないことを(教えられている)。主はそのことを他の多くの所でも教えられている。主はまた自分の兄弟または隣人を性急に怒って、これを敵として考えることもまた人を殺すことであると教えられている(マタイ5・21、22)。

 

 

 

 

黙示録講解1015[3]

 

憎悪と愛とは真向から対立しているものであるからには、憎悪は

結果として、ちょうど愛が人間のもとに天界を構成しているように、人間のもとに地獄を構成するからには、主は以下のように教えられている

 

 もしあなたが祭壇に捧げ物をして、そこであなたの兄弟があなたに何かのことで反感を抱いていることを憶い出すなら、そこにあなたの捧げ物をその祭壇の前に残しておいて行き、先ずあなたの兄弟と和解し、それから帰って来て、捧げ物を捧げなさい。あなたの仇と共に道の中にいる間にその者と和解しなさい、もしかしてその仇があなたを裁判官に引き渡し、その裁判官が役人に引き渡し、あなたが牢に投げ込まれる恐れがないためである。まことにわたしはあなたに言います。あなたは最後の小銭を払ってしまうまではそこから出てくることはないのである(マタイ5・23−26)。

 

裁判官に引き渡され、その裁判官により役人に引き渡され、その役人により牢に投げ込まれることは、その者が世においてその兄弟に対し憎悪を抱いていたことから死後も憎悪の念にいる人間の状態を記しており、『牢』は地獄を意味し、『最後の小銭を払うこと』はとこしえに燃え続ける火と呼ばれる刑罰を意味している。