その日、その時はだれも知らない
マタイ24・36
マタイ24・36−42
その日、その時はだれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのはノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
啓示による黙示録解説794
『ひきうす』は霊的な真理を探求し、点検し、確認することを意味することについては、以下の記事を参照されたい―
イエスは言われた、代の完結[終り]には二人が畑にいるが、一人は取られ、他の一人は残され、二人がひきうすでひいているが、一人は取られ、他の一人は残されるであろう(マタイ24・40、41)。
『代の完結[終り]』により最後の審判が行われる教会の終りが意味され、『畑』により収穫物はそこに在るため、教会が意味され、『挽き臼で挽いている者』により教会内で真理を探求している者が意味され、『取られる者』により真理を見出して、受け入れる者が意味され、『残される者』により、誤謬の中にいるため、真理を探求しないし、またそれを受け入れもしない者が意味されている。
天界の秘義4334[2]
天の天使たちも知らない、ただわたしの父のみが知っておられる(マタイ24・36)
は、天界も善と真理との方面の教会の状態を明確には知ってはおらず、ただ主のみがそれを知っておられ、また何時教会のその状態が来るかについても天界は知ってはおらず、ただ主のみがそれを知っておられることを意味している。主御自身が『父』により意味されていることについては、15、1729、2004、2005、3690番を参照されたい。主の中の神的善は『父』と呼ばれるものであり、神的善から発している神的真理は『子』と呼ばれるものであることについては、2803、3703、3704、3736番を参照されたい。それで父と子とは異なったものであると信じ、父と子とを引き離す者は聖書を理解していないのである。