太陽は暗くなり、月は光を放たず、

星は空から落ち、天体は揺り動かされる

マタイ24・29

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.聖母から司祭へ

4.マリア・ワルトルタ

5.ヴァッスーラ

 

 

 

 

1.聖書

 

マタイ24・29

 

その苦難の日々の後、たちまち

太陽は暗くなり、

月は光を放たず、

星は空から落ち、

天体は揺り動かされる。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1839

 

 「見よ、非常な暗黒の恐怖が彼に臨んだ」。これはその暗黒は恐るべきものであったことを意味し、『暗黒』は誤謬を意味していることは、『暗黒』の意義から明白であって、それは誤謬であり、そのことについては間もなく説明しよう。陽が『沈みつつあった』ときの、教会の終末以前のその状態が『非常な暗黒の恐怖』により記されているが、太陽が沈んでしまったときのその状態は『暗闇』により、また17節に言われている他のものにより記されている。

 

 

 

天界の秘義1839 []

 

同じことが主によりマタイ伝に以下のように示されている、

 

  陽は暗くなり、月は光を放たないであろう、星は天から落ち、天の諸々の力は揺すぶられるであろう(24・29)。

 

 これはこの世界の太陽が暗くなることを意味しないで、愛と仁慈とに属した天的なものが暗くなることを意味しており、また月も意味しているのではなくて、信仰に属している霊的なものを意味しており、また星が天から落ちることを意味しているのではなくて、教会の人間のもとにある善と真理とに関わる知識がそのように落ちることを意味しており―なぜならその知識が『天の諸々の力』であるからである―またこれらの事が天に起こるのではなく、地上に起こるのである、なぜなら天は決して暗くなりはしなからである。

 

 

 

天界の秘義1839 []

 

『非常な暗黒の恐怖がかれにのぞんだ』は主はかくも大いなる剥奪[荒廃]に慄然とされたことを意味している。たれでも愛の天的なものの中にいるに比例して、かれは終結[終末]を認めるときは恐怖を感じるのである。主にあってはとりわけそうであられたのである、なぜなら主は天的な愛であり、神的な愛でもある愛そのものの中におられたからである。

 

 

 

天界の秘義1839 []

 

『暗黒』が誤謬を意味していることは聖言の極めて多くの記事から明白である、たとえばイザヤ書には―

 

  禍いなるかな、暗黒を光とし、光を暗黒とする者よ(5・20)。

 

 『暗黒』は誤謬を、『光』は真理を意味している。同書に―

 

  かれは地を眺め入られるであろう、見よ、暗黒と困苦。光は暗くなってしまった(5・30)。

 

 『暗黒』は誤謬を、『暗くなった光』は現れない真理を意味している。同書に―

 

  見よ、暗黒は地をおおい、暗闇は民をおおう(60・2)。

 

 アモス書には―

 

  エホバの日、それは暗黒であって、光ではない。エホバの日は暗黒であって、光ではないのではないか。暗闇であって、その中には輝きがないのではないか(5・18、20)。

 

 ゼパニヤ書には―

 

  エホバの大いなる日は近い、その日は憤怒の日、困窮と困苦の日、荒廃と荒涼の日、暗黒と暗闇の日、雲と蔭の日である(1・14、15)。

 

 これらの記事の中では、『エホバの日』は教会の最後の時と状態を意味しており、『暗黒』と『暗闇』は誤謬と悪とを意味している。

 

 

 

天界の秘義1839 []

 

主も同様にマタイ伝に誤謬を暗黒と呼ばれている―

 

  あなたの目がもし悪であるなら、全身は暗黒になるであろう。それでもしあなたの中に在る光が暗黒であるなら、その暗黒はいかに大きなものであろう(6・33)。

 

 ここの『暗黒』はいくたの知識の中にいる者らを占有するいくたの誤謬を意味しており、その意味はこの『暗黒』は他の者の暗黒にもまさって、または知識を持っていない異邦人らの暗黒にもまさっていかに大きなものであろうということである。

 

 

 

天界の秘義1839 []

 

さらにマタイ伝には―

 

  王国の息子らは外の暗黒の中へ投げ出されるであろう(8・12、22・13)。

 

 『外の暗黒』は教会の中にいる者らのさらに恐るべき誤謬を意味している、なぜならかれらは光を暗くして、真理に向って誤謬を導入しているが、そのようなことは異邦人は行うことはできないからである。ヨハネ伝には―

 

  かれの中には生命が在った、生命は人の光であった、光は暗黒の中に現れる、しかし暗黒はそれを悟らなかった(1・4、5)。

 

 ここの『暗黒』は教会の中の誤謬を意味している。

 

 

 

天界の秘義1839 []

 

教会外の誤謬もまた『暗黒』と呼ばれているが、しかしそれは明るくされることができるような暗黒である。このようなものがマタイ伝に語られている―

 

  暗黒の中に坐っていた人々は大いなる光を見た、死の地域と蔭の中に坐っていた者たちに光がのぼった(4・16)。

 

 この『暗黒』は異邦人がもっているような無知の誤謬を意味している。

 

 

 

天界の秘義1839 []

 

ヨハネ伝に―

 

  これが審判である、すなわち光が世に来た、しかし人間は光よりも暗黒を愛した、彼らの業は悪であったからである(3・19)。

 

 『光』は真理を、『暗黒』は誤謬を意味しており、真理はことごとく主から発しているため、光は主を意味しており、誤謬はことごとく

地獄から発しているため、『暗黒』は地獄を意味している。

 

 

 

天界の秘義1839 [10]

 

さらに―

 

  イエスは言われた、わたしは世の光である、わたしに従う者は暗黒の中を歩みはしない(8・12)。

 

 またさらに―

 

  あなたらは光を持っている間に歩んで、暗黒にとらえられないようにしなさい。暗黒の中を歩む者は自分がどこに行くかを知ってはいないからである。わたしは世に光として来た、たれでもわたしを信じる者が暗黒の中にとどまらないためである(12・35、46)。

 

 『光』は善と真理とがことごとく発してくる源泉である主を意味し、『暗黒』は主のみによって消散される誤謬を意味している。

 

 

 

天界の秘義1839 [11]

 

最後の時の誤謬は―それは私たちの前に今おかれている節の中では『暗黒』と呼ばれており、またはそれについては『非常な暗黒の恐怖』という言葉が述べられているが―(十字架上の刑死にさいし)第六時から第九時まで全地にひろがった暗黒により、またそのとき陽が暗くなったことにより表象され、意味されたのであり、そのことによりそのときはもはや愛も信仰も存在しなかったことが表象され、意味されたのである(マタイ27・45、マルコ15・33、ルカ23・44、45)。

 

 

 

天界の秘義2495[2]

 

主は以下のように、代の終結[完結]を、または教会の最後の期間を述べられているー

 

 それらの日[その時代]の苦悶の後で直ぐに陽は暗くなり、月はその光を放たず、星は天から落ち、天の幾多の力は揺り動かされるであろう(マタイ24・29、マルコ13・24)。

 

 この記事の中では陽は陽を意味しておらず、『月』も月を、『星』も星を意味してはいないで、『陽』は主に対する愛と隣人に対する仁慈を意味し、『月』は愛と仁慈との信仰を、『星』は善と真理の幾多の知識[善と真理にかかわる幾多の知識]を意味していることは前に示されたところである(31、32、1053、1521、1529−1531、2120、2441番)、それで主のこれらの御言葉により代の終結[終り]には(または教会の最後の期間には)もはやいかような愛もまたは仁慈もなくなり、それでいかような信仰も存在しなくなるであろうということが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義4060

 

それで今私たちが取扱う言葉により善の方面の(即ち、隣人に対する仁慈と主に対する愛の方面の)その時の教会の状態が意味されていることは、その内意から明白であって、それは以下のようなものである。

 

 しかしそれらの日の〔その時代の〕苦悶の後に

 

は、信仰の真理の方面の教会の状態を意味されており(そのことについては直ぐ前を参照されたい)。聖言に真理が種々の所で荒れすさぶことは『苦悶〔苦しみ〕』と呼ばれている。(中略)

このことからこれらの言葉により最早いかような信仰も存在しなくなった後で、仁慈も存在しなくなるであろうということが意味されていることが明らかである。なぜなら信仰は仁慈とは何であるかを教え、仁慈はその性質を信仰の諸真理から受けるため、信仰は仁慈へ導くが、しかし信仰の諸真理は前の書物に繰り返し示されたように、その本質と生命とを仁慈から受けるからである。

 

 

 

天界の秘義4060〔2〕

 

「陽は暗くなり、月はその光を放たないであろう」(マタイ24・29)

 

は、『陽(太陽)』であるところの主への愛と、『月』であるところの隣人に対する仁慈を意味している。『暗くなって、その光を放たないこと』は、それらが現れないで、かくて消え去ってしまうであろうということを意味している。(『陽』は愛の天的なものであり、『月』は愛の霊的なものであり、即ち、『陽』は主に対する愛であり、『月』は信仰を通して現れてくるところの隣人に対する仁慈であることは、前の1053、1529、1530、2120,2441、2495番に見ることが出来よう)。そのことが『陽と月』の意義である理由は、他生では主は、天界の中で主に対する愛の中にいて、天的な者と呼ばれている者たちには太陽として現れておられ、隣人に対する仁慈の中にいて、霊的な者と呼ばれている者たちには月として現れておられるということである(1053、1521、1529−1531、3636、3643番)。

 

 

 

天界の秘義4060〔3〕

 

諸天界では太陽と月は(即ち、主は)決して暗くなりはしないし、またその光を失いもしないし、また霊的者たちのもとで隣人に対する仁慈もその光を失いはしないし、また地上でもこれらの天使たちが共にいる者たちのもとで、即ち愛と仁慈の中にいる者たちのもとでも(暗くはならないし、光を失いもしないのである)。しかしながら何ら愛と仁慈の中にいないで、自己をまた世を求める愛の中におり、従って憎悪と復讐の中にいる者らがその者ら自身にその『暗くなること』をもたらしてくるのである。この間の実情はこの世界の太陽の場合と同じであって、陽は絶えず輝いてはいるが、雲が介在すると、それは現れはしないのである(2441番)。

 

 

 

天界の秘義4060〔4〕

 

「星は天から落ちるであろう」

 

は、善と真理の幾多の知識は死滅するであろうということを意味している。それ以外のことは何一つ『星』が聖言に言われている時は、それにより意味されてはいないのである(1808、2849番)。

 

「天の権能〔力〕は揺すぶられるであろう」

 

は、教会の基礎を意味しており、その基礎はそれらが〔善と真理に関わる知識〕が死滅すると、『揺すぶられる』『震えさせられる』と言われるのである。なぜなら主から諸天界を経て注がれる善と真理との流入は最後には教会の人間のもとに在る諸善と諸真理となって終結しているため、地上の教会は天界の基礎であるからである。それで教会の人間が流入してくる善と真理とを最早容認しないといった歪められた状態の中にいる時、天の権能〔力〕は『揺すぶられる』と言われるのである。そうした理由から教会の何かが残るように、また古い教会が死滅すると新しい教会が再び建てられるように、主により常に配慮されているのである。

 

 

 

天界の秘義4060〔5〕

 

「その時人の子のしるしが天に現れるであろう」

 

は、その時神的真理〔神の真理〕が現れることを意味し、『しるし』は現れることを、『人の子』は神的真理の方面の主を意味している(2803、2813、3704番を参照)。弟子たちが、『何時これらのことがありましょうか、あなたが来られるしるしと代の終りのしるしはいかようなものでしょうか、私たちに話してください』と言って尋ねたものはこうした出現またはこの『しるし』であったのである(3節)。なぜなら彼らは聖言から、代が終わると、主は来られることを知っており、また主御自身から主は『再び来られる』ことを学んでいて、そのことにより主は今一度世に来られることを理解したものの、それでも未だ以下のことは知らなかったからである、即ち、主は教会が荒廃してしまった時は常に来られたのであるが、それは主が人間的なもの〔人間性〕を出生によりとられて、それを神的なものになされた時のように、御自身では実際に来られはしなかったのであり、出現〔現れること〕により来られたのである、即ち、主がマムレでアブラハムに、藪の中でモーセに、シナイ山でイスラエルの人々に、ヨシュアがカナンの地に入った際彼に現れ給うた時のように明白な出現により現れ給うたか、または聖言が与えられる手段となった霊感により、後には聖言を通して現れ給うたようにそれ程明白でない出現により現れ給うたかその何れかの出現により来られたのである。なぜならすでに再三示されたところから認めることが出来るように、聖言の凡ゆる事柄は主から発し、主に関わるものであるため、主は聖言の中に現存されておられるからである。この後のことが『人の子のしるし』によりここに意味されている出現であり、そのことがこの節に記されているのである。

 

 

 

天界の秘義4060〔6〕

 

「その時地の凡ゆる種族は嘆くであろう」

 

は、愛の善と信仰の真理の中にいる者たちはことごとく悲哀をなめるであろうということを意味している。『嘆くこと』はそのことを意味していることはゼカリア書12・10−14に見ることが出来、『種族』は善と真理の、または愛と信仰との凡ゆる事柄を意味し、従ってその中にいる者たちを意味していることは前に見ることが出来よう(3858、3926番)。教会の中にいる者たちが意味されているため、彼らは『地の種族』と呼ばれている。(『地』が教会であることは、前の662、1066、1067、1262、1733、1850、2117、2928、3355番に見ることが出来よう)。

 

 

 

天界の秘義4060〔7〕

 

「彼らは人の子が天の雲の中に力と大いなる栄光とをもって来るのを見るであろう」

 

は、その時聖言が主がその中におられる内意の方面で啓示されるであろうということを意味しており、『人の子』はその中の神的真理であり(2803、2813、3704番)、『雲』は文字的な意義であり、『力』はその中の善について、『栄光』は真理について述べられている。(これらの事柄が『人の子が天の雲の中に来るのを見ること』により意味されていることについては、第十八章の序言を参照)。このことがここに意味されている『主が来られること』であり、主が文字通りに雲の中に現れ給うであろうということではない。かくて新しい教会の設立の主題が続いて言われており、そのことは古い教会が荒廃して〔善と真理とを剥奪されて〕斥けられる時、起こるのである。

 

 

 

天界の秘義4060〔8〕

 

「かれはその天使たちをらっぱと大いなる声とをもって遣わすであろう」

 

は、目に見える天使にはよらないで、ましてやらっぱと大声にはよらないで、主から天使たちを通して流入してくる聖い善と真理により選ぶことを意味しており、それで聖言の『天使』により主の何かが意味されており(1925、2821、3039番)、ここでは主から発し、また主に関わる事柄が意味されているのである。『らっぱ』と『大声』により聖言の他の所のように、福音を宣べ伝えることが意味されている。

 

 

 

天界の秘義4060〔9〕

 

「彼らはその選ばれた者を天のこの端からかの端までも四方から集めるであろう」

 

は、新しい教会の設立を意味している。『選ばれた者』は、愛の、また信仰の善の中にいる者たちであり(3755−3900番)、彼らがそこから共に集められてくる『四方』は善と真理との凡ゆる状態であり(3708番)、『天のこの端から天のかの端まで』は教会の内なるものと外なるものとを意味している。それでこうしたものが主のこれらの言葉により意味されている事柄である。

 

 

 

信仰56

 

 仁慈から分離した信仰の宗教的原理が黙示録に竜とその2頭の獣により意味され、また記されていることは天界から私に話されたのみでなく、また天界の下に在る霊達の世界の中で私に示されもしたのである。この分離した信仰の中にいた者らは共に集まっていると、天に尾を伸ばしている一つの大きな竜のようになって現れるのを私は見たのであり、また同じ種類の他の者もその一人一人が竜のように現れているのを見もしたのである。なぜなら霊的な物と自然的な物とが相応しているため、霊達の世界にはこうした性質のものが現れるからである。こうした理由から天界の天使たちはこうした人物を竜の輩と呼んでいる。しかし彼らには一種類以上のものがあって、その竜の頭を構成している者、その身体を構成している者、その尾を構成している者がいるのである。その尾を構成している者らは聖言の凡ゆる真理を誤謬化した者らであって、それで黙示録にはその竜について、それはその尾で天の星の三分の一を引き落としたと言われている。『天の星』は真理の知識[真理に対する知識]を意味し、『三分の一』は凡てを意味している。

 

 

 

 

聖書112

 

主が天と地の神であられることを知り、また承認もすることが欠けている結果、また仁慈と信仰とを分離する結果、現今の教会の終りに暗黒が起るであろうと予告されているため、それでそのための聖言の純粋な理解が死滅しないように、主は現在、聖言の霊的意義を明らかにされ、聖言はこの意義では、またそこから自然的な意義でも主と教会を取扱っており、実にそのことのみしか取扱っていないことを明らかにされ、またさらに他の多くの事柄を明らかにされて、そのことによって、今や全く消滅しそうにもなっている聖言の光を回復されることを良しとされたのである。現今の教会の終りに真理の光は殆ど消滅するであろうことは黙示録の多くの所に予告されており、またマタイ伝の主の以下の語によっても意味されているところであるー

 

その日[時代]の苦悶の後すぐに陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、諸天の力は揺すぶられるであろう、そのとき彼らは人の子が栄光と力とをもって天の雲の中に来るのを見るであろう(マタイ24・29、30)。

 

ここの『陽』は愛の方面の主を、『月』は信仰の方面の主を、『星』は善と真理に対する知識の方面の主を意味し、『人の子』は聖言の方面の主を、『雲』は聖言の文字の意義を、『栄光』は、その霊的意義とまたその意義が文字の意義の中に輝き出ていることを意味している。

 

 

 

 

 

 

3.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1973.12.1

 

 淫猥な悪魔は何でも汚します。可哀想な子供たち・・・ どれほどそれに打たれて、その病気にかかっていることでしょう!

 神への反逆の精神が人類をそそのかしました。無神論がたくさんの人の心に入って、信仰と愛の光を残らず消してしまいました。

 聖書に描かれている赤い龍とはこれです。ああ、子供たち、聖書を読んでください。今はその実現の時です! 私の子供たちの中には、今やこのサタンの誤謬の犠牲者となった人が、どれほどいることでしょう。私の司祭のうちにさえ、もう信仰を持ってはいない人があります。それにも拘らず、私の教会の中に残っていますが、彼らは羊の衣をつけた真の狼で、数えきれないほど多くの霊魂を滅ぼしているのです!

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P61

 

‘43年7月23日

イエズスは言われる。

「時が到来するであろうとき、打ち勝つためには、霊魂の光を減少させる必要があるルシフェルのとぐろによって、多くの星が薙ぎ倒されるだろう。

 それは起きうるだろう。なぜなら一般信徒だけではなく聖職者たちも、神の光の圏内にとどまるために必要な、信仰、愛徳、力、純粋さ、現世の誘惑からの離脱などの毅然さを失ったし、ますます失いつつあるからだ。

 わたしがここで語る星が誰を意味しているか、貴女は理解しているだろうか? それはわたしが地の塩として、世の光として定義づけたもの、すなわちわたしの奉仕者たちだ。

 サタンの鋭い悪意の計画は、これらの星を薙ぎ倒すことによって、大衆にわたしの光を反射する光であるこの無数の灯火を消すことである。司祭的教会はまだ多くの光を放ちつづけているが、霊魂たちはますます闇のなかに沈みこもうとしており、わたしの空から数多くの星が消え去るであろうとき、どんな闇が大衆を押し砕くか容易に理解できる。

 

 

 

 

5.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P133

‘00・10・16

 

繊細なる娘よ 秘密をうち明けよう、もうすぐ龍が 自らのしっぽを食らうようにさせる、間もなく天より命を下す。 私は 本気で我が家を回復するつもりでいる。 私の現存を奪われた家(*)に 我が聖体をふたたび打ち立て そこは聖なる場所となる。 あなた(*1)は至高なる私から奪い去られ、龍によって地に倒された、それでも、言っておく、皆に言っておく、「我が霊は 地上に注がれ 天の露を豊かに滴らせる すると地上の草は青さを増し加え、木々は花を咲かせて その枝葉は美しく たわわな実をつける、そう! たわわに、今に 見ているがよい!

 

「いつまでも永らえると、誰が言ったか?(*2) もう十分長く 鷲のように舞い上がり、星々(*3)の間に巣くい 刺となった。さあ、戦いに出てきて 私と顔を合わせなさい。 顔を合わす相手は アベルでない。 おまえの剣を 叩き落す。 おまえは我が家を荒し、最も尊いものを そこから盗んだ。 心ゆくまで盗み取った。 我が民の門を通過し 民の目を見えなくさせた。 その闇の王国を広げ 私の民を誤った道に連れ込めるとまだ信じてはいるが、今や、おまえの時は終わった。 もうやめよ。今にも 義は水のように流れ出し 我が霊は 止めどない流れのように 溢れ出す・・・」

 

「ああ、今は何とよい時か・・・」と感嘆する時が 近づいている。 来なさい、新しい力を得るよう 休ませてあげよう。 私のメッセージを生きて あなたのために踏み固めた小道を辿りなさい・・・ic

 

 

*主は教会のことを仰っています。

*1主はその教会を仰っています。

*2主は突然 悪霊(龍)のほうを向いてこれらの言葉を仰いました。

*3同時に「信徒」とも聞こえました。