それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。

マタイ24・19

 

マタイ24・19

 

それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。

 

 

天界の秘義3753

 

 尊崇の念をもって主について考え、主の中に神的なものが在り、主は神的なものから話されたことを信じている者はことごとく、右に述べた言葉は、主が教えられ、また話された他の言葉のように、ただ一つの国民についてのみ話されたものではなくて、全人類について話されたものであり、その世の状態について話されたのではなく、その霊的な状態について話されたものであり、また主の言葉は主の王国と教会とに属している事柄を包含していることを知り、また信じることが出来るのである。なぜならそれらの事柄は神的な永遠のものであるからである。たれでもこのように信じている者は、『その日に[その時代に]身篭っている者と乳を飲ませている者は禍いなるかな』という言葉は身篭っており、乳を飲ませている者たちを意味しているのではなく、『あなたたちは冬逃げないように、また安息日に逃げないように祈りなさい』という言葉もこの世の敵のために逃げることを何ら意味しているのではなく、そのことはその他の言葉にも言われると結論するのである。

 

 

天界の秘義3755

 

しかしその日にその時代に身篭っている者と乳を飲ませている者とは禍いなるかな

は、主に対する愛の善と無垢の善とに浸透されている者たちを意味している。『禍いなるかな』は永遠の堕地獄の危険を意味している表現の形式であり、『身篭ること』は天界的な愛の善を身篭ることであり、『乳を飲ませること』はまた無垢の状態であり、『その日〔その時代〕』は教会がそのとき陥っている状態を意味している。

 

 

天界の秘義3756

 

 これがこれらの言葉の内意であることは、例えば『身篭っている者』により、先ず善に浸透されるようになる者たちが意味され、『乳を飲ませる者』により無垢の状態に浸透されるようになる者たちが意味され、『逃げること』により善と無垢から遠ざけられることが意味され、『冬』により、自己を求める愛が内部を占有することを通してこのような善を嫌忌することが意味され、『安息日に逃れること』により、外なるものの中には聖さが在るものの、内には自己と世への愛が在る時起ってくる冒涜が意味されていることは充分に示すことは出来るが、しかしこれらの言葉やそれに類似した表現は以下の記事に遍く記されているため、主の神的慈悲の下にその意義がここに述べられているようなものであることはそのとき示すことにしよう。

 

 

天界の秘義3757

 

 しかし聖いものを冒涜することについては、そのいかようなものであるかを僅かな者しか知ってはいないが、それでもそのことはそれについてすでに述べもしまた示しもしたことから認めることが出来るのである。すなわち、善と真理とを知り、承認し、それに浸透されるようになる者たちが聖いものを冒涜することが出来るが、しかしそれらを承認しない者はそれを冒涜することは出来ないし、ましてや善と真理とを知らない者はそれを冒涜することは出来ないのである(593、1008、1010、1059、3398番を参照)。かくて教会の中にいる者は聖いものを冒涜することが出来るが、教会の外にいる者はそれを冒涜することは出来ないのである(2051番)、天的教会に属している者は聖い善を冒涜することが出来、霊的教会に属している者は聖い真理を冒涜することが出来るのである(3399番)。それでユダヤ人には内的な真理は、彼らにそれを冒涜させないように、明らかにされなかったのであり(3398番)、異邦人は些かも冒涜することは出来ないのである(2051番)、冒涜とは善と悪とをまた真理と誤謬とを混合して、連結させることである(1001、1003、2426番)、このことは血を食べることにより意味され、そのことはユダヤ教会で極めて厳しく禁止されたのである(1003番)、それで人間が善と真理の中に止まることが出来ない限り、善と真理を承認し、信じないように能う限りそこから遠ざけられており(3398、3402番)、そうした理由から彼らは無知に置かれており(301−303番)、礼拝もまた外なるものになり(1327、1328番)、教会が善と真理を剥奪されてしまうまでは内なる真理は啓示されないのである、何故ならそのときは善と真理とは最早冒涜されることは出来ないからである(3398、3399番)、そのことが主がそのとき初めて世に来られた理由であった(3398番)、聖いものと聖言とを冒涜することから如何に大いなる危険が生まれてくることであろうか(571、582番)。