そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、

全世界に宣べ伝えられる

マタイ24・14

 

 

 

マタイ24・14

 

そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る。

 

 

マタイ 24・15 ―28

 

「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。 神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。 あなたがたには前もって言っておく。 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。 死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」

 

 

マタイ24・28−31

 

「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。

そのとき、人の子の徴が天に現われる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。

 人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 

 

天界の秘義3486−3489

 

天界の秘義3650−3655

 

天界の秘義3897−3901

 

天界の秘義4056−4060

 

 

 

天界の秘義3488[8]

 

 王国の福音は凡ての国民に証として、人の住む全地に宣べつたえられるであろう。

 

 このことはこれが先ず基督教世界に知られるようにならねばならないことを意味し、『宣べつたえられるであろう』は、それが知らされなければならないことを意味し、『この王国の福音』は、それがそうであるというこの真理であり、『福音』は告知であり、『王国』は真理であり(『王国』は真理を意味していることは前の1672、2547番に見ることができよう)、『人の住む全地に』は基督教世界を意味している(『地』は教会が在る領域であり、かくて基督教世界であることは、前の662、1066、1067、1262、1733、1850、2117、2118、2928、3355番に見ることができよう)。ここの教会は信仰の生命から、すなわち、真理のものである善から『人が住む』と呼ばれている、なぜなら内意では『住むこと』は生きることを意味し、『住む人』は真理の善であるからである(1293、2268、2451、2712、3384)、『証として』は、彼らが知るように、また自分たちは知らなかったという口実をもうけないように、を意味し、『凡ての国民に』は、いくたの悪に、を意味している(1259、1260、1849、1868、2588番)、なぜならかれらが誤謬と悪との中にいる時は、かれらは真のものと善いものとは最早知らなくなり、その時誤謬は真理であり、悪は善であり、またその逆に真理は誤謬であり、善は悪であると信じ、教会がこうした状態にいるとき、その時終りが来るからである。今以下に記されている事柄と主の神的慈悲の下に創世記の次の章の序言に明らかにされる事柄との中に、第三の状態であるところの『荒らす憎むべきもの[荒れすさばせる忌まわしいもの]』と呼ばれる教会の状態がとり扱われている。

 

 

天界の秘義3652

 

内意によるとその意義は今以下に記すようなものである―

 

それであなたたちは荒らす憎むべきもの[荒れすさばせる忌まわしいもの]を見ると

 

は、教会の剥奪[荒廃]を意味しており、それは、主がもはや承認されなくなるとき、従って主に対する愛と信仰が存在しなくなるとき、またもはや隣人に対する仁慈が存在しなくなるとき、従って善と真理とのいかような信仰も存在しなくなるとき起るのである。こうしたことが教会の中に現実におこるとき、またはむしろ聖言が存在している地域の中におきるとき―すなわち、人間がたとえその唇の教義ではそのようなものではないにしても、心の思いの中ではそのようなものになるとき―そのときに『荒涼[荒れすさぶこと]』が生まれ、今言ったばかりのことがその荒涼[荒廃]の『憎むべき事柄[忌まわしい事柄]』であり、それで『あなたたちが荒らす憎むべきものを見ると[荒れすさばせる忌まわしいものを見ると]』はたれでもこのような事柄を観察すると、を意味するのであり、このような場合に何をしなくてはならないかが今以下の16節から18節につづいて記されている事柄の中に述べられているのである。

 

 

天界の秘義3652[2]

 

 予言者ダニエルにより話されたところの

 

は、内意では、いくたの予言者たちによって、を意味している。なぜなら聖言にたれか予言者の名が言われているところでは、意味されていることはその予言者ではなくて、予言的な聖言そのものであるからであり、それは名は決して天界には浸透しないためであり(1876、1888番)、それでも予言者の名が異なることによって意味も異なってくるのである。『モーセ』と『エリヤ』と『エリシャ』により意味されていることは第18章の序言と2762番に見ることができようが、しかし『ダニエル』によっては主の降臨にかかわる、また教会の状態にかかわる、現在の場合では、その最後の状態にかかわる予言的な凡ゆる事柄が意味されているのである。剥奪の主題は予言的に詳細に取扱われており、それによって文字の意義ではユダヤ、イスラエル教会の剥奪[荒廃]が意味されているが、しかし内意では教会の剥奪が全般的に意味されており、かくてまた今や切迫している剥奪が意味されているのである。