皇帝のものは皇帝に
(マタイ22・21)
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
1.聖書
マタイ22・1−22
それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を
教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 イエスは、「これはだれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
ペトロの手紙1・2・13−14,17
主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。
すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。
テトスへの手紙2・9
奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。
テトスへの手紙3・1
人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。
2.スウェーデンボルグ
スウェーデンボルグ/仁慈の教義187
仁慈の義務は、共和国[国家]の種々の必要なもの、種々の用のために、被支配者と公民に課せられる税金であり、関税の義務であり、自分自身、妻、子供たち、僕、女中、職人にかかわるところの家族の種々の必要と用のための費用と支出であり、またかれらの相互の義務である。それで、厳粛な約束により義務となる若干の事柄が在る。これらの他に従属の、服従の、名誉の、社交の義務である社会的な義務もまたあり、それらは人間はそれらを為さなくてはならないため、義務と呼ばれなくてはならないのである。しかしそれらを詳細に列挙するとなると数頁に満ちるであろう。
王国の法律が課している種々の義務は仁慈の義務と呼ばれている、なぜなら仁慈はそれらを義務から行って、それをその好みから行いはしないからであり、仁慈はそれらを用[役に立つこと]として認めているため、それらを誠実にまた進んで行うのである。仁慈の中にいる者たちにあっては仁慈の誠実と優しさとが凡ゆる義務の中に内的に現存しているのである。しかし誠実も善意もかれらがその義務の中に予見する用に順応しており、また、かれらの知っている範囲内で、用の経済的な処理[管理]に順応しているのである。
3.トマス・ア・ケンピス
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・10・3
恩恵の賜物に教えられ、またそれを奪われその鞭に懲らされた者は、あえてどんな善をも自分のものにせず、かえって自分の貧しく、裸であることを認めるだろう。
「神のものは神に帰し」(マタイ22・21)自分の物は自分に帰せ。すなわち神に対してはその恩恵を感謝し、自分に対しては罪とそれに相当する罰のほか何もないことを知れ。