あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい

(マタイ20・26)

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

 

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ20・26

 

あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1594

 

「かれらはわかれた、すなわち、人がその兄弟から(わかれた)」。これはそうしたものが分離を生み出すことを意味していることはこれまでに言ったことから生まれてくる。『人、兄弟』の意味している、ことは前の8節に述べておいた、すなわち、結合が意味されており、それで『人がその兄弟からわかれること』は分離を意味している。外なる人を内なる人から分離するものは人間は知らないが、それは多くの理由によっている。それは一つには内なる人があることを人間が知っていないためであり、またはそのことを話されたとしても、それを信じないためであり、また一つには自己愛とそのいくたの欲念が分離を生みだすものであり、世を求める愛とそのいくたの欲念もまた分離を生みだすものであるが、しかしそれは自己愛程甚だしくはないことを知らないためであり、またはそのことを話されるにしても、それを信じないためである。

 

[]人間が内なる人が存在していることを知らないし、またそのことを告げられるにしても、それを信じない理由は人間は形体的な感覚的なものの中に生きていて、形体的な感覚的なものは内的なものを到底認めることができないということである。内的なものは外的なものを認めることができるが、しかし外的なものは内的なものを決して認めることはできない。視覚の場合を考えてみられよ、内なる視覚は外なる視覚の如何ようなものであるかを認めることはできるが、しかし外なる視覚は内なる視覚の何であるかを認めることはできないのである。またはさらに、知的な合理的なものは記憶知の能力のいかようなものであるかを認めることはできるが、しかしその逆は行われないのである。さらに他の理由は人間は、死ぬと身体から分離する霊が存在していることを信じないし、霊魂と呼ばれる内なる生命が存在していることをほとんど信じていないということである、なぜなら感覚的な形体的な人間が霊が身体から分離することについて考えると、そうしたことはありえない事柄として強くかれには考えられるからであるが、それはかれは生命を身体の中において、そうした考えを、獣もまた生きてはいるが、それでも死後は生きはしないという事実から確認しているためである、その他多くの事柄がある。このすべては人間が形体的な感覚的なものの中に生きているということの結果であり、こうした種類の生命は、それ自身において観察されるときは、人間はその遭遇するものについて考えたり、論じたりする能力を持っているというただ一つの点を除いては、獣の生命とほとんど相違していないものであるが、しかし獣が持っていないこの能力について人間はそのとき反省はしないのである。

 

 

[]しかしながらこの原因は外なる人を内なる人から分離させるものではない、なぜなら人類の大部分はこうした不信仰の中にいて、最も学問のある者は単純な者よりもさらに不信仰の中にいるからである。しかし分離させるものは第一次的には自己愛[自己を愛する愛]であり、また世への愛であるが、しかし世への愛は自己愛ほどには分離させはしないのである。人間がこのことを知っていない理由はかれは仁慈の中に生きていないということであり、人間は仁慈の中に生きていないときは、自己愛とその欲念の生命は天界の愛に甚だしく反していることがかれに明白になるはずはないのである。自己愛とその欲念の中にはまた燃えているものがあり、従って歓ばしいものがあり、それにその生命は動かされて、その人間はその中に永遠の幸福があるとのみしか考えないのであり、それで多くの者は永遠の幸福を身体の生命の後で偉大なものになることの中におき、また他の者から、実に、天使たちからでさえも仕えられることの中に置いているが、自分自身はたれにも仕えようとはしないで、もし他の者に仕えるなら、それも自分のためであって、自分自身がそのことによって他から仕えられようとする目的を心に秘めているのである。かれらが自分たちは主のみに仕えたいと言っていることも偽りである。なぜなら自己愛の中にいる者は主をさえも自分に仕えさせようと欲しており、そのことが為されないかぎり、かれらは離れ去ってしまうからである。かくてかれらは主自らになって、宇宙を支配しようとする願望を心の中に抱いている。多くの者が、否、すべての者がこのようなものになるときは、これはいかような政治になるかは容易に想像できよう。その中ではたれもが自分自身を他の者以上に愛している政治は地獄的なものではないか。これが自己愛の中に隠れているのである。このことから私たちは自己愛の性質を認めることができるのであり、またそのことを以下の事実からも認めることができるのである、すなわち、自己愛の中にはその自己愛にかれら自身を奴隷として服従させはしないすべての者に対する憎悪が隠れており、憎悪があるため、復しゅう、残酷、詐欺、その他多くの邪悪なものが在るのである。

 

 

[]それのみが天界的なものである相互愛は、人間が自分自身については以下のように言うのみでなく、またそのことを承認もし、信じもしていることにあるのである、すなわち、自分は全く無価値なものであり、卑しい汚れたものである、主はその無限の慈悲から自分を地獄から絶えず引き出され、遠ざけておられるが、その人間はその地獄の中へ自分自身を投げ込もうと絶えず努めている、いな、渇望しているのである。かれがそのことを承認し、信じているのはそれが真であるためである、主がまたはたれか天使がかれが服従するためにそれを承認し、信じるように欲しておられるというのではなくて、かれが自分はまことにそうしたものであることを認めて、高ぶらないためである、なぜならそうしたことは排泄物がそれ自身を純金と呼ぶようなものであり、または糞のやまの上を飛んでいるはえが自分は楽園の鳥であると言うようなものであるからである。それで人間が自分自身は自分が実際あるようなものであることを承認し、またはそのようなものであると信じるに応じて、かれは自己愛からその自己愛のいくたの欲念から後退して、自分自身を忌みきらうのである。かれがそのことを為すに応じて、かれは主から天界の愛を、すなわち、すべての者に仕えようとする願望から成っている相互愛を受けるのである。これらの者が主の王国の中で最大の者となるところの『いとも小さい者』により意味されている者たちである(マタイ20・26−28、ルカ9・46−48)。

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P47

 

 人の偉大さは知識や地位によるのではない。これだけでは人は偉大たりえない。人は他の人々に役立つときこそ偉大である。そして、自分の人生が他に役立つかどうかは他への奉仕にかかっている。そのように、人が無条件の愛の中で他の人々に仕えれば仕えるほどに、ますます人は偉大な者となるのだ。「あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」(マタイ20・26)とキリストがいわれた通りである。愛の中で互いに仕え合うというこのことに、天の住民すべての歓びはある。こうして、彼らは人生の目標を全うし、永遠に神の臨在の中に留まるのである。