しかし、先にいる多くの者が後になり、
後にいる多くの者が先になる
マタイ19・30
マタイ19・30
しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。
マタイ20・16
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。
マルコ10・31
しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。
天界の秘義2027
『あなたの後のあなたの裔に』は、主は主を信じるにちがいない者たちにこれらのすべてのものを与えられるであろうということを意味していることは、『裔[種]』の意義から明白であり、それは信仰であり(1025、1447、1610番参照)、事実仁慈の信仰である(379、389、654、724、809、916、1017、1162、1176、1258番参照)。自分の生活の行為に功績をおいている者らは仁慈の信仰を持っておらず、それでここに意味されている裔ではない、なぜならかれらはそのことにより、主の義によらないで、自分自身のものによって救われようと欲しているからである。かれらの中には仁慈の信仰は、すなわち、仁慈が何ら存在していないことは以下の事実から明白である、すなわち、かれらはかれら自身を他の者の前に置き、かくてかれら自身を顧慮して、他の者を、その者がかれらに役立たない限り顧慮しないし、かれらに進んで仕えようとしない者を軽蔑するか、または憎むかするのである。かくて自己への愛によりかれらは分離して、決してともにはならず、かくして天界的なものを、すなわち、天界にその恒久性を与えている相互愛を破壊してしまうのである、なぜなら天界そのものはその相互愛の中にあり、その連合と一致とはことごとくその中に存続し、またそこから成っているからである、なぜなら他生では何であれ一致をこぼつものはことごとく天界の秩序そのものに反しており、かくて全体を破壊するようになるからである。こうしたものが己が生活の活動に功績を置いて、自分自身のために義を要求する者らである。他生にはこうした者が多いのである。
[2]かれらはときとしてその顔は小さなたいまつのように輝くが、しかしそれは自己義認から発している幻想[妄想]の火から発しており、事実はかれらは冷ややかである。かれらは時折走りまわって、聖言の文字の意義から自己の功績を確認しているのを見られる、なぜならかれらは内意にぞくしている真理を憎悪しているからである(1877番)。かれらのスフィアは自己顧慮のスフィア[霊気]であり、かくて自己を一種の神性者として認めない観念をことごとく破壊するのである。こうした種類の多くの者のスフィアはともになると、そこには敵意と憎悪以外には何ものも存在しないほどにも互に反発し合うのである、なぜならたれもが同一のことを、すなわち、仕えられようと欲するときは、かれは他の者を心の中で殺してしまうからである。
[3]かれらのある者は、自分たちは主のぶどう園に働いたとは言っているが、事実は働きつつも絶えず利得のみでなく自分自身の優越性を、光栄を、名誉を心に抱いており、自分らは天界において最大の者となって、天使たちからも侍かれるであろうと言いさえもし、他の者を自分自身に比較して心で軽蔑し、かくて天界を構成している相互愛に浸透しないで、自己愛に浸透し、その自己愛に天界を置いている者らの仲間となっている、なぜならかれらは天界とは何であるかを知らないからである。(このような者については、前の450‐52、1594、1769番を参照されたい)。これらの者は最初のものとなろうとして、最後のものになる者にぞくしており(マタイ19・30、20・16、マルコ10・31)、主の御名により予言し、多くの驚くべき事柄を行いはしたものの『わたしはおまえたちを知らない』と言われている者にぞくしている(マタイ7・22,23)。
天界の秘義5164[2]
主に対しては凡ての者は、その境遇はいかようなものであっても、等しく僕であるということであり、主の王国または天界では最も偉大な者は(すなわち、最も内なるものである者たちは)、最大の服従の中にあり、他の者よりもさらに深い卑下の中にいるため、他の者以上に僕となっている、なぜならこれらの者は『最も偉大なものとなる最小のもの』により、また『最初のものとなる最後のもの』により意味されている者たちであるからである―
最初のものは最後となり、最後のものは最初のものとなるである(マタイ19・30、20・16、マルコ10・31、ルカ13・30)。
あなた方の間で最小のものは偉大なものになるであろう(ルカ9・48)。
またこれらの者は『仕える者となる偉大な者』により、『僕となる最初の者』によっても意味されている―
たれでもあなた方の中で偉大になりたいと思う者はあなた方に仕える者とならなくてはならない、またたれでもあなた方の中で最初のものになりたいと思う者は凡ての者の僕とならなくてはならない(マルコ10・44、マタイ20・26、27)。