天の国のために結婚しない者もいる

マタイ19・12

 

 

マタイ19・10−12

 

弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

 

 

 

天界の秘義394

 

 さて人類が永遠の死の中に死滅しないように、このことが予見され、配慮されたために、仁慈から分離した信仰を意味しているカインに何人も暴行を加えてはならないとここに言明され、更に彼に一つの印がおかれたと言明されているが、それは主が信仰を維持することを確実にするために、それを特殊な方法で区別されたことを意味しているのである。これらはこれまで発見あれなかったアルカナであり、主がマタイ伝に結婚と宦官について語られて言及されたものである―

 

 母の胎から宦官として生まれた宦官がおり、人間から宦官とされた宦官がいる、また神の国のために自分自身を宦官とした宦官がいる。それを受けることが出来る者にそれを受け入れさせなさい(マタイ19・12)。

 

 天界の結婚の中にいる者たちは宦官と呼ばれており、『母の胎から宦官として生まれた』宦官は天的な天使たちに似ている者であり、『人に宦官とされた』宦官は霊的な天使に似ている者であり、『自分自身から宦官になった』宦官は仁慈よりはむしろ服従から行動する天使的な霊に似ているのである。

 

 

結婚愛156[イ]

 

神の王国のために自分自身を閹人とした者(マタイ19・12)。

 

『神の国のために自分自身を閹人(えんじん、宦官)』とする閹人によっては、結婚において姦通の悪から遠ざかっている霊的な閹人が意味されているのである。イタリア的な閹人が意味されていないことは明らかである。

 

 

黙示録講解710[ロ][28]

 

主は後に宦官について話されたのは、弟子たちが『もし男の場合が妻に対してそうしたものであるなら、結婚生活を結ぶことは適当ではない』と言ったためであり、またユダヤ国民のもとでは―それは、悪から誤謬の中にいたため、心の無情な国民であったが―結婚は結婚ではなく、霊的な意味において理解されると、姦淫であり、それゆえその国民は主により、『姦淫を犯す代の者』と呼ばれたのである。このことが主が宦官について話された理由であったのであり、『宦官』は結婚に入ろうとする、すなわち、悪に対する情愛と連結しようとする何らの願望を持たない者たちを意味しているのは、真理と善とに対する理解はかくして歪められ、消散してしまうためであり、かくて『宦官』は結婚した者を、また結婚していない者を―その者たちの中には真理と善とに対する理解は真理と善とに対する情愛と連結しているが、そうした者たちを―意味している。そうした者たちは『宦官』と呼ばれているのは、彼らは何ら好色の念を―ユダヤ人が持っていた心のかたくなさから、数人の妻を取り、凡ゆる理由のために彼らを離縁する者らが持っているような好色の念を―持っていないため、『宦官』と呼ばれている。

 

 

黙示録講解710[ロ][29]

 

先ず以下のことを知らなくてはならない、すなわち、真理と善に対する理解が真理と善に対する情愛と結婚することは全般的に三重の起原を持っており、かくて三重の度を持っている。最高の度の中には天的なものと呼ばれている者たちの結婚が在り、それよりは低い度の中に霊的なものである者たちの間の結婚が在り、最低の度の中には自然的なものである者たちの間の結婚が在る、なぜなら人間の内部には三つの度が在り、そこから三つの天界が在るからである、最高の天界にいる者たちは天的なものと呼ばれ、低い天界にいる者たちは霊的なものと呼ばれ、最低の天界にいる者たちは自然的なものと呼ばれている。天的な者における善と真理とに対する理解と善と真理とに対する情愛との結婚は『母の胎内から宦官として生まれた宦官』により意味されているのは、これらの者は再生しつつあるときは、真理を真理に対する愛を通して直接に生命の中に受け入れ、従って彼らは真理を真理そのものから知っており、主に対する愛を通して主によりこれらの者が再生することは『胎内に宦官』とされることにより意味されており、かくて姦淫の好色を持っていない。

 

 

黙示録講解710[ロ][30]

 

 霊的なものである者たちの真理と善とに対する情愛と真理と善とに対する理解の結婚は『男により宦官とされた宦官』により意味されている、なぜならそうした者たちは胎内において再生しないのであり、すなわち、愛を通して再生しないのであり、先ず記憶の中に受け入れられた真理を通して、後に思考において知的に、かくて最後に一種の霊的な情愛を通して生命[生活]の中に再生するからであり、これらの者は『男により宦官とされる』と言われているのは、彼らは記憶から理解を通して改良されるためであり、『男』は、また前のように―そこには『男と妻』が言われているが―かの理解を意味している。しかし自然的なものである者たちにおける真理と善に対する情愛と結ばれる真理と善との結婚は『自らを宦官とする宦官』により意味されている、なぜなら自然的なものである者たちは認知と知識とにより自然的な光を自らのために獲得し、これらの知識に従った生命の善を通して彼らは情愛を獲得し、そこから良心を獲得する、これらの者は自分ら自身がそのことを為しているとしか知らないため―なぜなら自然的な人は霊的な人の理知を享受せず、また天的な人の認識をも享受していないからである―それでこれらの者は『自らを宦官とする』者たちにより意味されている、しかしこのことは外観から言われ、彼らにおける漠然とした信仰から言われているのである。それゆえこのことが『神の王国のために宦官となること』の意味である。そしてこれらの事柄を把握する者は僅かしかいないため、主は『受け入れることが出来る者が受け入れなさい』と言われているのである。(しかしこの主題の説明においては「天界の秘義」の中に以下の項目の下に言われていることを参照されたい、すなわち、「諸天界」は二つの王国に分割されている、人間の内部の三つの度に従っている三天界、20−40番、天界における結婚、366−386番)

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下/357.12/P158