畑に隠された宝

マタイ13・44

1.聖言より

2.畑・・・教会とその教義

3.宝・・・天界と教会との真理、教会の諸真理と諸善の凡て

4.隠れた・・・自然的な人からかくれてしまっているところの

5.マリア・ヴァルトルタ

 

 

1.聖言より

 

マタイ13・44

 

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

 

 

真の基督教701

 

この聖さは、聖言の霊的な意義に関する、または自然的な物と霊的な物との間の相応に関する知識が無くては宝物が畠に隠れているように隠れているのである。畠に宝物が在ることが発見されない中はその畠は特に価値あるものと思われないが、それが発見された時、特にその宝物は金よりも貴いものである事が判明した時、これを購入した者は豊かになるのである。この秘蹟はその霊的な意義を離れては、宝石と宝物とが一杯入っているが閉じられていて特別な注意を惹かない家のようなものである。しかし、教職者達がその壁を大理石で覆い、その屋根に金の板を着せるとき、それは道行く人の眼を奪い、称賛を得、而してその家が開かれるとき、凡ゆる者はその中に入り、その位階に応じ、その監視人から賜物または貸与を受けることが自由に許されている。何故ならその内の宝物は無尽蔵であり、絶えず新たにされるからである。聖言の霊的な内容と秘蹟の天的な内容は正しくそのようなものである。

 

聖餐はその内的な聖さの啓示なくしては、非常に豊富な砂金を含んだ土砂のようなものであるが、その聖さが示される時、それはその土砂から集められ、溶解され、美しい形に造り上げられる金のようなものである。この秘蹟はその聖さが発見されない中は、普通の木で造られているが、中には金剛石、紅玉及び他の宝石が順序正しく排列されている箱のようなものである。その内容を眺め、しかもそれは自由に分配さるべきものであると告げられる時、何人がその箱を尊重しないであろうか。この秘蹟は、それに相応する天的な物の啓示が無ければ、普通の衣服に身をやつして、何人にも気付かれぬままに通り過ぎて行く天使のようなものである。もしかれが天使的な知恵を語り、驚くべき業を果す天使として認められるならば、事情は異るであろう。

 

 単に聖さを主張することとそれを証示することの相違は、霊界に於ける下記の事件によって説明することが出来よう。パウロが世に居た時に書いたものではあるが、彼の作とは知られていなかった一つの書簡が読まれた。最初、この書簡は聞く者達に軽んぜられた。しかしそれがパウロの書簡の一つであることが発見された時、喜びを以て受け入れられ、その内容は尊ばれた。これは高位高官に在る教職者達が単に聖言と秘蹟に聖さを帰することによって、実際聖さの印がその聖言と秘蹟とに与えられるものであることを示したのである。しかし、その効果はその聖さそのものがその霊的な意義の啓示により露わされ、明らかにされる時、さらに大いに高められるのである。何故ならかくして聖さは外的なものではなく、内的なものとなり、他の者達の権威に於いて受け入れられるのでなく、明白に認められるからである。聖餐の秘蹟の聖さも同様である。

 

2.畑・・・教会とその教義

 

 

黙示録講解840[]

 

 『真珠』は知識を、また真理そのものを意味しており、『大いなる価の真珠』は主を承認することを意味しており、『もっている凡てのものを売ること』は、自分自身の愛に属している凡ゆるものをわきにおくことを意味し、『それを買うこと』は、自分自身にかの神的真理を獲得することを意味している。

 

 

[10]同じようなことが以下によっても意味されている―

 

畠にかくれている財宝、それを或る人間が見出し、喜びのあまり行って、何であれその持っているものをことごとく売り、その畠を買 た(マタイ13・44)

 

その『財宝』は聖言の中にある神的真理を意味し、『畠』は教会とその教義を意味し、『何であれその持っていた物をことごとく売ってその畠を買う』ことは、ここでも前のように、自分自身のものであるものを傍にとりよけて、主の教会の中にある神的真理を自分自身のために取得することを意味している。

 

 

天界の秘義2969

 

「エフロンの畠」。これは教会にぞくしたものを意味していることは以下から明白である、すなわち、『畠』の意義は教会であり、また教義であり(368、2968番を参照)、『エフロン』の表象は教会にぞくしている信仰の善と真理とがその許で受けられることができた人たちであり(2933番)、そこから『エフロンの畠』は教会にぞくしたものを意味している。

 

3.宝・・・天界と教会との真理、教会の諸真理と諸善の凡て、

 

黙示録講解863イ

 

マタイ13・44−46

『畠にかくれていた宝物』と『真珠』とは天界と教会との真理を意味し、『一つの貴い真珠』は主を承認することを意味している。真理をそれが真理であるために愛する情愛は『喜びの中に行って、その持っている凡てのものを売り、その宝物がかくれている畑を買った人間』により意味され、また『行って、そのもっている凡てのものを売って、その貴い真珠を買った商人』により意味されている。

 

 

天界の秘義10227[6]

 

わたしがエホバであることをあなたが知るために、わたしはあなたに暗黒の宝を、秘かな所のかくれた財を与えよう(イザヤ45・3)

 

『暗黒の宝と秘かな所のかくれた財[富]』は、自然的な人からかくれてしまっているところの、天界の理知と知恵に属している事柄を意味しているのである。

 

[7]エレミヤ記には―

 

ユダの罪は鉄のペンで記されている。ああ、野[畠]の中のわたしの山よ、わたしはあなたの財産とあなたの宝をことごとく戦利品として与えよう(17・1,3)。

 

ユダが『野の中の山』と呼ばれていることは、ユダのもとに天的な教会を表象するものがあったためである、なぜなら『山』は天的な教会の愛を意味し(6435番)、『野[畠]』は教会を意味し(2971、3766,7502、9139、9295番)、『戦利品として与えられる』ことになっている『財産』と『宝[財宝]』は消散することになっていた教会の諸真理と諸善の凡てを意味しているからである。

 

 

天界の秘義10227[19]

『財産』、『財』、『富』、『銀』、『金』により理知と知恵に属したそうした事柄が意味されているため、それでまた天国は主により『畠にかくれた宝』(マタイ13・44)にたとえられており、かれらは『宝の在る所には心も在るため、天界に尽きない宝を己がために作らなくてはならない』と言われているのである(マタイ6・19−21、ルカ12・33、34)。

 

 

天界の秘義5886[4]

 

霊的な意義では『買うこと』は自己のために得ることであり、『売ること』は遠ざけることであるため、それでマタイ伝には、天界の王国は主により売り買いする者にたとえられている―

 

天国は畑に隠れた宝に似ている、人がそれを見つけると、隠しておき、喜んで去り、その持っているものを凡て売って、その畑を買うのである。さらに、天国は美しい真珠を探し求めている商人に似ている。彼は貴重な真珠を見つけると、去り、その持っているものを凡て売って、それを買ったのである(12・44−46)。

 

『天国』は人間のもとにある善と真理とを意味し、かくてそのもとにある天界を意味し、『畑』は善を意味し、『真珠』は真理を意味し、『買うこと』は善と真理を自分自身に得て、自分自身のものとすることを意味し、『その持っているものを凡て売る』は、彼が以前持っていた彼自身のものを遠ざけることを、かくて悪と誤謬を遠ざけることを意味している、なぜならこれらは自分自身のものであるからである。

 

 

 

天界の秘義5886[5]

 

ルカ伝には―

 

イエスはその若いプリンスに言われた、あなたは尚一つの事を欠いている、あなたが持っているものをことごとく売って、貧しい者に分け与えなさい、さすればあなたは天に宝を得るでしょう。そして来て、わたしについてきなさい(18・22)。

 

内意ではこれらの言葉により、悪と誤謬以外のなにものでもないところの、彼自身のものである凡てのものは遠ざけられねばならない、そしてそれが遠ざけられたとき彼は『天の宝』である善と真理とを受けるに違いないことが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義5886[6]

 

同書に以下のように言われていることも同様である―

 

あなたたちの財産を売り、施しなさい。古くならない財布を、尽きない天の宝を作りなさい(ルカ12・33)。

 

たれでもこれらの言葉には他の意義が在ることを認めるのである。なぜならたれでもその財産を売ることは現在では自分自身を乞食にして、仁慈を行う能力をことごとく、それを売った後では、自分自身から剥奪してしまうからであり、また天界には貧しい者のみでなく、富んだ者もいるということは確立された真理であるからである。

 

 

 

 

4.隠れた・・・自然的な人からかくれてしまっているところの

 

天界の秘義10227[6]

 

わたしがエホバであることをあなたが知るために、わたしはあなたに暗黒の宝を、秘かな所のかくれた財を与えよう(イザヤ45・3)

 

『暗黒の宝と秘かな所のかくれた財[富]』は、自然的な人からかくれてしまっているところの、天界の理知と知恵に属している事柄を意味しているのである。

 

 

真の基督教701

 

この聖さは、聖言の霊的な意義に関する、または自然的な物と霊的な物との間の相応に関する知識が無くては宝物が畠に隠れているように隠れているのである。畠に宝物が在ることが発見されない中はその畠は特に価値あるものと思われないが、それが発見された時、特にその宝物は金よりも貴いものである事が判明した時、これを購入した者は豊かになるのである。この秘蹟はその霊的な意義を離れては、宝石と宝物とが一杯入っているが閉じられていて特別な注意を惹かない家のようなものである。

 

 

天界の秘義1462[5]

 

記憶知または人間の知恵が『エジプト』により意味されていることもまたダニエル書に明白であって、そこには天的な霊的なものにかかわる記憶知は『金と銀の隠れた物』と呼ばれ、また『エジプトの好ましい物』と呼ばれている。

 

 

5.マリア・ヴァルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/福音/上237/天使館/霊のパン2009年10月第5号/P28

 

 「幾スタディオンも猛暑の中を歩いて、福音を聞くためにやって来られた皆さんに平安。

 わたしは真にあなたたちに言います。あなたたちは、王国がどんなものか、それを有することがどれほど貴重なことか、そしてそののものであることがどれほど幸せなことかを、本当に理解し始めています。また、あらゆる苦労はあなたたちにとっては価値を失い、他の人々にとってはそれを保存します。なぜなら、精神はあなたたちの内で命令し、肉に言います。『わたしがお前を抑えつけるのを喜べ。わたしはそれをするその至福のためなのだ。お前が最後の復活の後に、再びわたしと一体となるであろう時、お前はお前を踏みつけにしたがゆえにわたしを愛するだろうし、わたしのうちにお前の第二の救い主を見るだろう』と。皆さんの霊はそう言いませんか?もちろんそう言っています!

 今、あなたたちは、わたしがはるか昔にした譬え話の教えに基いて行動しています。けれども、今わたしは、あなたたちを待っているこの王国と、計り知れないその価値をあなたたちがますますもっと愛するようになるために、別の光を与えます。

 聞きなさい。ある男が、たまたま、彼の小さな菜園のために畑に土を取りに行き、苦労してとても堅い地面を掘っていると、幾つかの地層の下に貴重な金属の鉱脈を見つけます。その時男はどうしたでしょう?彼は発見したものに土を被せて隠しました。それ以上働くことはもうどうでもよくなりました、というのも、この発見は苦労に値するからです。それから彼は家に戻り、お金と貴重品からなる彼の全財産をまとめると、大金をつくるために売り払いました。それから、彼はあの畑の所有者の所へ行き、言いました。『あなたの畑が気に入りました。いくら払えば売ってもらえますか?』。『売るつもりはない』との返事でした。だが、男はどんどん金額を吊り上げ、畑の価値より遥かに高い額を示し、とうとう所有者に売ることを決心させました。所有者は考えました。『この男は気が狂っているぞ!そうだとしたら、これを利用しない手はない。彼がくれると言う金を受け取ろう。彼が自らその金を払うと言うのだから、わたしは不当を働くのではない。この金で、もっとよい畑を少なくとも三つは買えるだろう』。そして彼は畑を売って、大変素晴らしい商売をしたと確信しました。しかし、素晴らしい取引をしたのはもう一方の男でした。なぜなら彼は、泥棒に盗まれたり、使い果たしたり、失うこともあり得る物を提供し、本物の、自然の、無尽蔵の宝物を手に入れたのだから。したがってしばらくは、この畑の所有のみに留まっても実際は畑に隠されている宝物を、それも永遠に、所有したのだから。この買い物のために犠牲にしたものに値します。

 あなたたちは、こうしたことすべてを理解し、この譬え話の男のようにしなさい。王国を所有するためにカゲロウのような儚い富を捨てなさい。富は、この世の愚か者に売り払うか、与え、そんなことをするのは馬鹿げていると嘲笑う世間には笑わせておきなさい。このようにしなさい。いつもこのようにしなさい。そうすれば、あなたたちの御父は喜び、いつの日か、王国にあなたたちの席を賜るでしょう。

 安息日になる前に家に戻り、の日には、王国のことである宝物の譬え話についてよく考えなさい。あなたたちに平安」。