種を蒔く人が種蒔きに出て行った

マタイ13・3

 

マタイ13・1−9

 

 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群集がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群集は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

 

 

マタイ13・10−17

 

 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、

見るには見るが、決して認めない。

この民の心は鈍り、

耳は遠くなり、

目は閉じてしまった。

こうして、彼らは目で見ることなく、

耳で聞くことなく、

心で理解せず、悔い改めない。

わたしは彼らをいやさない。』

 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたの見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

 

 

マタイ13・18−23

 

 だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。

 

 

イザヤ6・9−11

 

主は言われた。

「行け、この民に言うがよい

よく聞け、しかし理解するな

よく見よ、しかし悟るな、と。

この民の心をかたくなにし

耳を鈍く、目を暗くせよ。

目で見ることなく、耳で聞くことなく

その心で理解することなく

悔い改めていやされることのないために。」

わたしは言った。

「主よ、いつまででしょうか。」

主は答えられた。

「町々が崩れ去って、住む者もなく

家々には人影もなく

大地が荒廃して崩れ去るときまで。」

 

 

マルコ4・1−20

 

 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群集が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群集は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、

『彼らが見るには見るが、認めず、

聞くには聞くが、理解できず、

こうして、立ち帰って赦されることがない』

ようになるためである。」

また、イエスは言われた。「このたとえが分らないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

 

 

ルカ8・4−15

 

 大勢の群集が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、

『彼らが見ても見えず、

聞いても理解できない』

ようになるためである。」

「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

 

 

天界の秘義3310[2]

 

『野[畠]』は信仰に属している事柄が、すなわち、教会のものである霊的な真理がその中に植えつけられなくてはならないところの生命の善であることはマタイ伝の主の譬から極めて明白である―

 

 種を蒔く者が蒔くために出て行った、蒔いている中に、或るものは固い道の上に落ちた、が、鳥が来て、それを食い尽くしてしまった、他のものはたいして土のない石地に落ちた、土が深くなかったので、それはすぐ芽を出した、が、陽が上ったとき、焼かれて、根がなかったので、枯れてしまった、他のものは茨の中に落ちた、茨は大きくなって、それをふさいでしまった、しかし他のものは良い土地に落ちて、果を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の果をむすんだ、聞く耳のある者には聞かせなさい(マタイ13・3−9、マルコ4・3−9、ルカ8・5−8)。

 

 ここには畠[野]の中の―すなわち、教会の中の―四種類の土または土地がとり扱われている。『種』は主の聖言であり、かくて信仰に属していると言われている真理であることが、また『善い土地』は仁慈のものである善であることが明白である、なぜなら聖言を受けるものは人間の中の善であるからである、『固い道』は誤謬であり、『石地』は善に根ざさない真理であり、『茨』は悪である。

 

 

天界の秘義5096

 

 「牢屋に縛られているところの」。これは誤謬の間に在ったところの、を意味していることは、『牢屋に縛られていること』の意義から明白であり、それは誤謬の間に在ることであり(4958,5037,5038,5085番を参照)。誤謬の中にいる者は、まして悪の中にいる者は『縛られている』、『牢』にいると言われているが、それは彼らが縄をかけられているということではなくて、彼らが自由ではないという理由によっているのである、なぜなら自由でない者たちは内的には縛られているからである。なぜなら誤謬を確認した者らは真理を選んで、それを受け入れる自由の中には最早全くいないのであり、それを甚だしく確認した者らは真理を認める自由の中にすらもいないのであり、ましてやそれを承認して、信じる自由の中にはいないからである、なぜなら彼らは誤謬は真理であり、真理は誤謬であると確信しているからである。こうした確信は他のことを何か考える自由をことごとく奪い去り、従って思考そのものに縄をかけて、いわば牢にとじこめてしまうといったものである。このことは誤謬を己が中に確認することを通して確信してしまっている他生の者らとの多くの経験から私に明白となったのである。

 

 

天界の秘義5096[2]

 

彼らは真理を全く容認しないで、それを跳ね返すか、または打ち返してしまうかする輩であり、しかもそれをその確信の度に応じて、特に誤謬が悪から発している時には、または悪が誤謬を説得させてしまっている時には頑強に行われるのである。これらの者がマタイ伝の主の譬の中に意味されている者らである―

 

ある種は固い道に落ちたが、鳥が来て、それを食い尽くした(マタイ13・4)

 

『種』は神的真理であり、『固い岩』は確信であり、『鳥』は誤謬の原理である。このような者は自分が縛られていることを、または牢にいることを知りさえもしないのである、なぜなら彼らは彼ら自身の誤謬に感動していて、それをそれが発生して来る源泉である悪のために愛しており、そこから彼らは自分たちは自由であると考えているからである、なぜなら何であれ情愛または愛に属しているものはことごとく自由に思われるからである。しかし確認された誤謬の中にいない者たちは、すなわち、誤謬を確信していない者たちは容易に真理を容認し、それを認め、選び、それに感動し、後には誤謬を謂わば彼ら自身の下に認め、また誤謬を確信している者らがいかに縛られているかを認めるのである。これらの者は観察と思考とに於て謂わば全天界を跋渉して無数の真理にまでも達することが出来る程の自由の中にいるが、しかし何人も善の中にいない限り、この自由の中にいることは出来ないのである。なぜなら善から人間は天界におり、天界では真理は善から現れるからである。

 

 

天界の秘義5335[2]

 

 残りのものの充分なものがまたマルコ伝の『三十』、『六十』、『百』により意味されている―

 

 良い地に落ちた種子は実を結んだ、それは生え出て、増大し、一つは三十を、他の一つは六十を、また他の一つは百を生み出した(マルコ4・8、20)。

 

 この数字の凡ては十の倍数から起っているため、それは残りのものが満ちている状態を意味している。人間は残りのものを十分に受け入れない中は、再生することは出来ないため、すなわち、再生が遂行される手段である霊的な闘争へ入れられることが出来ないため、レビ人は三十年を完全に終えない中は集会の天幕の中で仕事を全く行ってはならないと定められたのであり、その仕事または務めは、モーセの書に記されているように、『戦い』と呼ばれているのである―

 

 レビの息子たちのうちからコハテの息子たちの総数を、三十歳以上の息子から五十歳の息子まで、戦いに来て、集会の天幕の中で仕事を為す者を凡て調べよ(民数記4・2、3)。