預言者を預言者として受け入れる者は

(マタイ10・41)

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ10・40−42

 

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 

 

 

マルコ9・38−41

 

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は必ずその報いを受ける。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

神の摂理230

 

ここの『予言者の名』『義しい者の名』『弟子の名』により単に予言者、義しい者、弟子しか理解しない者は文字的な意義しか理解せず、また予言者の報い、或いは義しい者の報い、或いは弟子に水一杯を与えることに対する報いの何であるかも知らない。しかし『予言者の名と報い』により神的真理に服従して生きる者の幸福な状態が意味され、『義しい者の名と報い』により神的善に従って生きる者の幸福な状態が意味され、『弟子』により教会の若干の霊的な教訓に従って生きる者の状態が意味され、『冷たい水一杯』は多少の真理を意味している。

 

 

 

黙示録講解102ロ(6)

 

『予言者の名において予言者を受け』、『義人の名において義人を受け』、『弟子の名において飲ませること』は、真理のために真理を愛し、善のために善を愛し、真理の信仰から仁慈を行うことを意味しているのである、なぜなら『予言者』により真理か意味され、『義人』により善が意味され、『弟子』により真理から発した善が意味され、『冷たい水を飲ませること』は服従から仁慈を実践することであり、そうした者たちの『名において』は、その者たちが現在ある状態のために、であり、かくてその者たちのために、であるからである。

 

 

 

黙示録講解102ロ(7)

 

真理のために真理を愛して行うことは、善のために善を行うことは、善と真理とのために、それらのものに対する情愛は真に霊的な情愛であるが、しかし自分自身の名声、名誉、または利得のために、それを持つことではない。こうした真理と善とに対する情愛は単に自然的な情愛である。真理と善とを、真理と善とのために、またはそれが真理と善であるために愛する者たちは真理と善とに対する霊的な情愛の中にいるため、それで、彼らは『予言者の報い』を、また『義人の報い』を受けるであろう、と言われており、そのことは彼らは真理と善とに対する情愛の中にいることを意味しており、この情愛は、それ自身の中に天界を持っているため、それ自身の中に報いを持っているのである。(天界の幸福は、報酬を目的としてそれを何ら顧慮することもなく、かくて真理と善とのために、真理と善とを愛し、行うことを求める情愛の中に在ることについては、「秘義」、6388、6478、9174、9984番を参照されたい。『予言者』は真理を教える者を意味し、かくてまた、抽象的には、教えられる真理を意味していることについては、2534、7269番を参照。『義人』は主に対する愛の善を意味している、2235、9857番。『弟子』は真理から発した善を意味し、それは仁慈の善である、2129、3354、3488、3858、6397番。『飲ませること』は信仰の諸善と諸真理とを教えることであり、かくて仁慈を実践することである、3069、3772、017、4018、8562、9412番、『名』は事物[事柄]の性質を意味し、144、145、1754、1896、2009、3237番、ここから『エホバの御名』または『主の御名』は主を拝する手段である凡ゆる性質を意味している、2724、3006、6674、9310番。)

 

 

 

啓示による黙示録解説8

 

「予言者の名において予言者を受ける者は予言者の報いを受け、正しい人の名において正しい人を受ける者は正しい人の報いを受けるであろう。」(マタイ10・41)

「予言者の名において予言者を受けること」・・・教義の真理をそれが真理であるために受けること

「正しい人の名において正しい人を受けること」・・・善を善のために受けること

「報いを受けること」・・・受けることに応じて救われること

 

何人も予言者と正しい人をそうした者の名において受けたからといって報いを受けはしないし、または救われもしないことは明白である。それらの言葉は『予言者』と『正しい人』の意味するところを知らなくてはたれからも理解されることは出来ない。また以下の言葉も理解されることは出来ない―

 

 たれでもこれらの小さい者の一人に、弟子の名において一杯の冷たい水のみでも飲ませる者はその報いを失わないであろう。

 

『弟子』により仁慈が意味されると同時に主から発している信仰が意味されている。ヨエル書に―

 

 わたしは凡ての者(フレッシュ)にわたしの霊を注ぎ出そう、それであなたらの息子たちと娘たちとは予言するであろう(ヨエル2・28)。

 

これは主により設立されることになっていた教会について言われており、その教会の中で彼らは予言はしないで、教義を受けるのであり、そのことが『予言する』ことなのである。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/天使館/第4巻中/P177/265・13

 

 あなたたちを受け入れる者は、わたしを受け入れます。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わしたお方を受け入れるのです。預言者を預言者として受け入れる者は、預言者と同じ報いを受け、義人を義人として受け入れる者は義人と同じ報いを受けます。またそれというのも、預言者のうちに預言を認める者は、彼もまた預言者である証拠であり、つまり大いなる聖者です、というのも神の霊の両腕に抱かれているからです。また義人を義人として認めた者は彼自身が義人であることを証明しています、というのも、似ている霊魂たちはお互いを認識するからです。したがって正義によって各自に報いが与えられるでしょう。

 わたしのしもべの一人に一杯の水でも与えるであろう者は、そのしもべが最も小さな者―イエズスを聖なる生活をもって説教するすべての者は、物乞いであろうと王であろうと、賢者であれ無知な者であれ老人であれ幼子であれイエズスのしもべであり得る、というのもすべての年齢層のどんな階級の人もわたしの弟子であり得るから―であっても、わたしの名において一杯の水を与える者は、まことにあなたたちに言いますが、彼はその報いを失うことはないでしょう。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P84

 

 では、あなたたちは、私も彼女を祝福するとあの人に伝えておくれ。私に代って子供たちを愛してくれるようにとね。あなたたちは蜂蜜とパン菓子のためだけでなく、あのよい婦人を愛しなさい。私の名で子供を愛している人は、その名が天に書かれるのだから、あなたたちも彼女に倣いなさい。私の名で水の一杯を与えても、あわれみの心は天の報いを受けます。子供に対してのあわれみ、子供たちを飢えや渇きや寒さばかりでなく、世間の腐敗から救っている場合は、無限に報いられると知りなさい。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/10卷上P95/604・42

 

 ピラトは偽りの善人です。ロンギヌスは善人です。彼は総督よりも力は劣り、通りの真ん中で少数の兵士にしか守られずに、敵意を持つ大群衆に囲まれましたが、勇気を出してわたしを守り、助け、休ませました。敬虔な女性たちからの慰めを受けさせ、キレネ人からの助けを受けさせ、最後には、わたしの母を十字架の下に来させました。彼は正義の人でしたから、キリストの英雄になりました。

 気を付けなさい、おお、物質的な幸福だけを心配する人たち。は、あなた方がから発散された正義に忠実に向かっているのを見れば、好意的に介入してくださいます。わたしは常に、正しい行いをする人たちに報います。わたしを庇う人たちを庇います。彼らを愛し、助けます。わたしはかつて、このように言った者です、『わたしの名において、一杯の水を与える者は、その報いを得るでしょう』。わたしに愛を、聖なる殉教者であるわたしの唇を潤す水を与えてくれる人に、わたしわたし自身、つまり、保護と祝福を与えます。