マルタ・ロバン

1902〜1981

1.「マルタ・ロバン 十字架と喜び」

レイモン・ペレ著/レデンプトリスチン訳/愛と光の家

2.「マルト・ロバンの面影 一女性の不思議な生涯」

ジャン・ギトン著/岳野慶作訳/中央出版社

 

マルタ・ロバンはフランスの農村に生まれました。快活な少女だったようですが、子供の頃から病気がちで、16歳のころ倒れ、半睡状態となります。しばらくして回復し、松葉杖で歩けるようになりますが、22歳のころからは足腰が麻痺し、26歳からは特製の長いすのベッドで生涯を過ごすことになります。そしてこのころから全く食物がのどを通らなくなり、ご聖体だけが彼女の食べ物となります。しかも睡眠もできなくなります。またこのころから聖母のご出現が多くなったようです。翌年からは両手も麻痺してしまいます。28歳のとき、ご出現されたイエズスから聖痕を受け、その後毎週金曜日に主のご受難を経験するようになります。

 

数々の女性が主のご受難を生きた例が伝えられていますが、私には一体それはどういうことなのかよくわかりません。マルタ・ロバンの場合もその一例です。しかし、意味はどうあれ、そこには主のご意志が働いておられることは確実であり、感謝し、つつしんでお受けする必要があると考えています。事実彼女たちの発する言葉には非常に霊的な響きがあります。

 

なお、彼女と指導司祭や協力者とによって世界の60数箇所に「愛の家」が建てられ、我が国にも大阪に「愛と光の家」があるそうです。

 

追記:主が彼女たちを通じて受難を再現される理由について、デボラによる「生ける神より与えられた英知」の中に貴重な言及がありました。

 

主の内的なおん傷・・・無理解の傷

デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻下P78

 

 「人々はイエズス様の受難のことを、『すべて』外的な傷そのものとして話しますが、主の内的なおん傷について考える人が少ないことです!もしこの手記を読む人にとって何か有益なことができるとしましたら、私は無理解の傷ということについてあえて書きたいと思います。主は、ご自分の僕たちによっておん身体に、或いは被造界において空中や地上に造り出される外的な表示のすべてを利用して、苦悩全体、すなわちその『道徳的、霊的』そして身体的苦悩を全て含めて理解されることを望んでおられるのです。しかし、ああ悲しいことに、私たちは非常に度々、鞭打ち、茨の冠、そして十字架上での死で終わるイエズス様の身体的苦痛の玄義のみに留まってしまいます。しかし主のもっとも痛むおん傷とは、人々から理解されず、模倣されることもないということからくるものだということを、いったいいつになったら私たちは理解するでしょうか!

 

 私は、神父様、修道女、信徒達などが、血の涙、ご出現、奇跡、などの現象について、それに関するまことの思索や反省をすることなく、それらの意味について議論しているのを聞いたことがあります。全能の神様は、ご自分の子供達が神様について抱いている間違った概念によって毎日心が傷つけられておいでになります。なぜなら多くの人々は神について、それは小さな罪も罰し、『涙の谷』で人が死ぬままに放置し、人類から分離して天上にただ座っておられる神、という観念を抱き、つまり神の本質を偽りの観念の中にはめ込んでいるからです。

 

 聖なるおん父はそこで、その果てしない愛を特別な出来事によって確証を与え、慰め、新たに許すことによって仲介しにきてくださいます。このようなおん父とは、いったいなんと良い父親なのでしょう!このような創造主の愛とは、なんという愛なのでしょう!

 

 神様は常に手を差し延べておられ、そのみ心は常に注意深く、またあれこれと世話をやいてくださるお母さまでもあられ、永遠の存在、とご自分を呼ばせることにふさわしい唯一の方でいらっしゃいます! 」

 

 

 

 

マルタ・ロバンの子供時代

十字架とよろこびP43

私はいつも小さい女の子として神様を愛しました。姉たちは私がいつも祈っているのを望みませんでしたので、特にベッドの中で祈りをしていました。マリア様に祈り、いろいろお話しました。祖父のもっていた、ぶ厚い夕の祈りの本の中で見つけた祈りをとなえました。お使いで村へ行くときには、いつもポケットの中にロザリオをもっていたので、道々歩きながらロザリオをとなえたものです・・・。

 

十字架とよろこびP42

この初聖体で、私は全く主のものとして捕らえられたと思います。あのときすでに主が私を、ご自分のものとしてしっかりとつかまえられたのを感じました。この私的初聖体は私の生涯の中でも、とくに甘美な出来事でした。

 

23歳の奉献

十字架とよろこびP76

 神である主よ、あなたはこの小さなはしために、すべてを求められました。ですからどうぞ、すべてを取り、すべてを受け入れてください。今日私は、あますところなく、また取り戻すことなく、あなたに自分をお渡しします。おお、私の魂の愛するおかたよ。私の望みはただあなただけ、それゆえあなたへの愛のために、私はすべてを放棄します。

 

十字架とよろこびP77

おお、イエズスよ、あなただけのものでありたいと、望みあえいでいるこの小さな貧しい心をお取りください。あなたの力強いおん手のうちにいつもこの心を守り、どんな被造物にも心を移したり、うち明けたりすることのないようにお守りください。

 

十字架とよろこびP77

あなたから来るすべてのものを、愛をもってお受けします。悩み、苦しみ、喜び、慰め、心のかわき、遺棄、孤独、軽蔑、辱め、労働、苦痛、試練、あなたからいただくこれらすべてを、あなたがお望みになるものすべてを。おお、イエズスよ。

 

苦しみ

マルト・ロバンの面影P79

 

苦しむときは、もっと多く愛することを学ぶ学校にはいっているようなものです。苦しみを知らなかった人は、決して、喜びを完全に味わうことができないでしょう。

 

 

面影P83

 

 苦しみの最中にあってこそ、愛することはどれほど快いことかを経験している。特に、苦痛の中にあってと私は言いたい。なぜなら苦痛は、ほんとうの愛を学ぶ比類のない学校なのだから・・・苦痛は神の愛の生きた表現であり、人類の偉大な教育者だ。苦痛の中で、また苦痛を通してだけ、愛することを覚え、真実に愛することができる。真の苦痛は、この世の生活の人間的な楽しみの中から生まれることはなく、むしろ自分をはぎとり自己を捨て去ることの中に、また主の十字架の上に築かれるのだから。

 

 

面影P84

 

 苦しみによって、血まみれの傷を受けたことのない心は、高みおよび天からくる生き生きと力づけ聖化させる空気を、自由に呼吸することができない。すべての昇華はみな乗り越えた苦しみに養われている。昇ること、それはすべてを越えること、それも絶えまなく自分を乗り越えることである・・・それはまた神のために、愛によって、すべてを与え、すべてをいけにえとすることなのだ。(1927年3月17日)

 

 

面影P156

 

 病気であるということは、はずかしめ、欠乏、みじめさにさらされることです。しかし、神を愛したいと思う霊魂にとって、このはずかしめ、欠乏、みじめさは、燃えるともしびに変わります。

 たしかに、『天』への道はどんなに暗くとも、少しも恐ろしいものではありません。決して絶望することはありません。ああ、わたしは、苦しみはみあるじに身を委ねる小さな霊魂にとって光明であると言いたいと思います。断定したいと思います。『もしも小さい者がいたら、わたしのもとに来なさい。わたし自身その力その慰めになるでしょう』。感動すべき真理ではありませんか。なぜなら、恩寵に従順な霊魂は、わたしたちを迷わすことのできない『かた』に、心たのしく、身を委ねるからです。

 『かれ』のように情深い『友』、慈愛に富む『父』、愛深い『天配』に守られているのに、苦しむことができるでしょうか。泣くことができるでしょうか。絶え入ることができるでしょうか。いいえ、『かれ』ほど理解し、慰めてくださるかたはありません。神のくださる慰めにくらべるならば、人間の慰めはきわめて冷たいものです。人間の支えは、苦しむ者をしっかと支えるには、きわめて弱い葦のようなものです。限りないすべての苦しみを支えてくださった神だけが、これをみなやわらげてくださることができるのです。

 愛は心を彫ります。愛は清めます。悲しみは平和をもたらします。

 ああ、わたしのイエスよ、あなたの小さいいけにえは苦しむべきです。しかし、あなたが愛してくださったように、あなたを愛すべきです。あなたを離れては、生きることも苦しむこともできないでしょう。ああ、イエスよ、わたしを永久にお守りください。わたしはあなたのものです。わたしに忍耐をお与えください。なにごとにおいても、平静をお与えください。

 あまり前やうしろを眺めないようにしましょう。いつも高いところを眺めましょう。

 

 

十字架とよろこびP115

 

すべての存在は、カルワリオであり、すべての霊魂は、それぞれの生活の杯を黙って飲みほさなけれなならないゲッセマネの園なのです。

 

面影P294

わたしが、わたしは死ぬために生きています、死はわたしの生命の大きな観念であり、意味であります、と言いますと、人々はおどろきます。わたしの考えでは、死は、被造物の崩壊の時を示すのではなく、むしろ反対に、まことの発展を示すからです。死ぬことはわたしにとって利得でありましょう。なぜなら、死の偉大な結果は、わたしにすばらしい世界をかくすヴェールを消し去るにちがいないからです。

 

聖母

面影P166

あなたは、あなたの全能と限りないいつくしみとによって、マリアを神の母にふさわしい者となしました。そしてそれは、マリアを現実にすべての人の母となすためでした。あなたは、この地上の生活において、謙遜にかの女に従われました。そして、あなたの業を完成して、天において、その聖い尊厳にふさわしい栄光をかの女にお与えになりました。

 

面影P170

 聖母のお顔は、たぐいなく美しいものです。(聖母のお顔の輪郭を描くことはできません。それほど、どこも完全です)。お顔はやさしく輝いています。花々しいものではありません。それで、かえって美しいと言うことができます。聖母は、その態度、その身振りにおいては、その美によって目をおどろかせることがなく、むしろ、引きつけ、心を奪います。ご出現に接するときは、ひざまずいたり、平伏したりしたいとは思いません。むしろ、飛んで行きたいと思います。それもなにかを願うためではなく、感謝と愛との感情に駆られるのです。

 

主よ、わたしの神よ

面影P167

ああ、こよなくいとしいかたよ、わたしはなんとしあわせでしょう。なぜなら、わたしはわたしの心があなたのみ心のなかで鼓動するのを感じるからです。あなたがわたしの心のなかにおいでになるのを感じるからです。あなたがそこに生きておられ、支配しておられるのを感じるからです。あなたがわたしの主であられること!それはなんという秘義でしょう。わたしは天国にいるように思います。イエスよ、わたしは、いつか、あなたがこのようにわたしの心のなかで鼓動されるのを感じるとき、死にたいと思います。ああ、イエスよ、わたしは、いつか、あなたの愛に燃えつくされたいと思います。それも、わたしの努力によってではなく、あなたの恩寵によって。わたしは『死によって』ではなく、あなたに対する愛に生きながら、死にたいと思います。

ああ、わたしの神よ、この世でこれほどの平和を与えてくださり、これほどしあわせにしてくださるとしたら、天国ではどんなでしょう。・・・

 

わたしは、神に、そのたまものを停止してくださるよう祈ります。なぜなら、それに堪えられないからです。

ああ、もしもすべての人が、イエスがどんなに美しく、どんなにやさしく、この上もなく愛すべきかたであるかを知っていたら、その愛しか求めないでしょう。イエスは、どういうわけで、こんなに愛されていないのでしょうか。なぜ、すべての心がイエスのあわれみ深い愛に答えないのでしょうか。わたしたちの心はただ一つのかたを愛するためにつくられています。それはわたしたちの偉大な愛の神です。もしも『愛』を愛さないならば、なにを愛するのでしょうか」。

 

十字架とよろこびP124

 わが主、わが神よ、あなたにわが身をゆだねます。あなたは私にここにいるように望まれたので、私はこのままでとどまり、けっして抜け出ようとはしない。もしあなたが私に他のところを望まれるなら、私もそれを望む。おお、イエズスよ、あなたは、いつでもどこでも私をあなたのものとして、守ってくださることを知っている。

 

教会の刷新・・・『信徒によって若返るでしょう』、『家』、『黙想会』

面影P74

フィネ神父は語っている。

「最初の一時間のあいだ、マルトは聖母マリアについてしか話さなかった。かの女は、神秘に満たされた人のように、神秘と親密にまじわっている人のように、聖母マリアについて話した。

 

 第二時間目は印象深かった。マルトは、権威ある語調で、本を読んでいるかのように、歴史のなかに展開するに違いない『諸事件』について話してくれた。これらの事件のうち、あるものはきわめて重大で、きわめて辛いものであった。他の事件は希望と美とに満ちたものであった。大変よく記憶しているのは、『教会のなかに愛のペンテコステ(聖霊降臨)がおこなわれるでしょう』と言ったことである。かの女はまた、教会は『信徒によって若返るでしょう』とも言った。

 

 マルトは、このかなり新しい『信徒』という語に力を入れた。そして、『信徒』は未来の教会のなかで主要な役割りを果すにちがいないと、繰り返し話してくれた。そう話しながら、喜びに満たされていた。かの女はまた、教会は刷新されるとも言った。そのうえ、信徒について話したとき、この信徒を養成する手段を見出すことが焦眉の急であることを強調した」。

 

 この手段というのは、「家」(foyer)を創設すること、「光の家」、「仁愛の家」、「愛の家」を創設することであった。このような言葉はいかにも単純であった。しかし、フィネ神父はそれがどういうことを意味するのかわからなかった。

 

 そこで、神父は嘆息をしながら言った。「それはまだできていませんね」。マルトはこれに耳を貸さなかった。そして、つぎのように説明した。「それは聖別された信徒の仕事です。修道会の仕事ではありません。この『家』は司祭によって指導されます。そして、全世界にかがやくでしょう。それは諸民族の物質的敗北ののちに与えられるキリストの答えなのです」。

フィネ神父は口をつぐんだ。

 

 三時間目がすぎた。三時間目に、マルトは神父の方に向き直った。そして言った。「神父さん、わたしはあなたに一つの願いがあります。この願いはわたしからのものではありません。神からのものです。それは、あなたが、あなた自身が、ここに、シャトーヌフに来られて、最初の『家』を建てることです」。

 

フィネ神父は答えた。「それはできません。なぜなら、わたしはこの教区には所属していないからです」。するとマルトは答えた。「かまいません。神がお望みですから」。そして、つぎのように説明した。「神はここで黙想会を開くことを求めておられます。それも三日間の黙想会ではありません。改心させるためには三日では足りません。五日必要です。この黙想会は婦人たちや若い娘たちのためです」。

 

 フィネ神父は答えた。「それでは討論会や座談会を開くのですか」。マルトは言った。「いいえ、聖母マリアは沈黙をお求めになります」。

 

 

愛のペンテコステ(聖霊降臨)

面影P143

決して特別な形で考えているのではありません。平和なもの、ゆるやかなものとして考えています。それは、少しずつ、徐々におこなわれると思います。すでにはじまっているとさえ考えています。将来については、いろいろな考えを提供されます。しかし、なにも知りません。ただ一つのことを除いては。それは、将来とはイエスだということです。