マリアという名の道
1.グリニョン・ド・モンフォール
2.聖母から司祭へ
3.マリア・ワルトルタ
1.グリニョン・ド・モンフォール
聖母マリアへのまことの信心/山下訳/P176
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この信心はわたしたちをイエズス・キリストとの一致にみちびく平坦で最短、完全で確実な道なのです。
第@項
この信心は、平坦な道
それは、イエズス・キリストが、わたしたちのもとにおいでになるため、ご自身がたどられた道です。同時に、わたしたちが、イエズス・キリストのみもとにいたるために、なんの障害もない道なのです。
たしかに、ほかの道をたどっても、神との一致には到達できるでしょう。しかし、そんな道には途中、たくさんの十字架や、越えがたい峠や、多くの困難があるので、それを通り越すのはなかなか大変です。
くらい夜道も通らねばならず、外敵との激しい戦い、内面の心痛、けわしい山、イバラやトゲ、おそろしい沙漠もひかえています。しかし、マリアという名の道ですと、きわめて快適な、きわめて平穏な旅ができるのです。
実際に言って、そこにはなすべき大きな戦いもあり、うち勝たねばならぬ困難もあります。しかし、良き母、良き女王、マリアは、ご自分のしもべのごく近くにいてくださいます。かれが、やみ路をたどっているときには、照らしてくださいます。疑惑の雲にとざされているときに啓発してくださいます。恐れおののいているときには強めてくださいます。戦いのとき、困難のときには勇気をささえてくださいます。
真実にいって、この道こそは、イエズス・キリストを見いだすための道です。ほかの道にくらべたら、バラの道、蜜のしたたる道です。
ごく少数ながらも、この道をたどった聖人がいます。聖エフレム、聖ヨハネ・ダマスコ、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖ボナベントラ、聖フランシコ・サレジオ、その他です。
かれらはみな、この甘美な道を通って、めでたくイエズス・キリストにたどり着きました。マリアの忠信な夫であられる聖霊が、特別のお恵みで、この道をかれらに指示してくださったからです。
しかし、数においてもっと多いほかの聖人も、なるほどマリアの信心はみんながもってはいましたが、それでもこの道をたどろうとはしなかったのです。だからこそ、もっと苛烈な、もっと危険な試練に見舞われねばならなかったのです。
聖母マリアへのまことの信心/山下訳/P280
245@わたしたちは今日、高慢な世紀に住んでいます。鼻もちならぬ学者先生や、ヘソまがりの批判家たちがたくさんいて、どんなにしっかりした神学的根拠をもつ信心業でも、こてんこてんにやっつけたり、さんざんくさしたりします。この先生がたに、不必要な非難へのチャンスを与えないためには、「マリアのドレイ」よりもむしろ「マリアにおけるイエズス・キリストのドレイの身分」と言ったほうがいいと思うのです。この信心に名前をつけるとなると、その最終目的であるイエズス・キリストのほうを、最終目的への道であり手段であるマリアよりも、優先すべきだと思うのです。むろん、わたしがそうしているように、実質的にはどちらをとっても同じことです。
たとえば、わたしが、東京(オルレアン)から名古屋(アンボアズ)を通過して、大阪(ツール)に行くとします。わたしは名古屋(アンボアズ)にも行くし、大阪(ツール)にも行く、とも言えるのです。名古屋に向って旅をしているし、大阪に向っても旅をしている、と言えるのです。ただちがうのは、名古屋は大阪への最短ルートの通過地点であり、大阪だけが、わたしの旅の最終目的であり、終点だということです。
2.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1976.3.25
私の小さいことや貧しさ、また主のみ旨を完全に満たそうとするこのように深い心づかいが、神のみ心を私に引きつけたのです。神はあなたがたのもとに来られるために、他の多くの道をお選びになることができましたが、私の道をお選びになりました。
それであなたがたは、神に至るために私のこの道が必要なのです。
私の子らよ、あなたがたに望む第一の要件はあなたがたの無条件の“ハイ”です。これは私の汚れなき心に奉献することによって行われます。
次に望むことは、あなたがたが完全な信頼と委託の精神をもって、私の母なる心によりたのむことです。
あなたがたの“ハイ”と完全な受諾によって、あなたがたの母が、行動するでしょう。
私がいかに大きな愛をもってみ言葉に人性を形づくったか、それと同じように子らよ、おん父があなたがたの一人一人に予定された計画に従って、よりよくあなたがたを形づくるように私はつとめます。神が私の最愛の子であるあなたがたに求めるこの計画は、イエズスのみ心に従った司祭となることです。
神の母は、人々に神をもたらすように選ばれたからです。あなたがたの母は、イエズスによって贖われ、また彼によって私に委託された人々を神に導くからです。
そのためにこそ、私はイエズスの本当の母であり、またあなたがたの本当の母です。
天国に於いて、ご託身の奥義を瞑想して歓喜するこの日、あなたがたも母の愛の奥義を見つめて喜んでください。この愛の奥義はすべての者が理解するわけではなく、ただ心の清い人、素朴な人、貧しい人、小さい人にだけ与えられる恵みです。・・・
1980.7.16
私は、あなたがたをイエズスに導く道です。それだけではありません。いちばん安全な道、いちばん短い道、しかも、あなたがたの、ひとりひとりに必要な道です。
もし、あなたがたが、この道を進むのを拒むなら、途中で迷ってしまう危険があります。
こんにちでは、多くの人が、あなたがたと、私のおん子とのあいだの仲介者である、私の役目を理解しませんでした。そのため、わたしを、イエズスに行くための“じゃまもの”であるかのようにさえ考えて、わたしを排斥しました。
それで、最近では、かつてなかったほど、私の大勢の子らに、イエズスにたどりつけないという危険が生じたのです。というのは、かれらの出合うイエズスは、単に、かれらの人間的な研究の成果にすぎないことがしばしばだからです。そのために、かれらのイエズスは、かれらの野望やのぞみに答える、かれらが、自分なりの寸法に従ってつくり出したイエズスでしかないのです。
このようなイエズスは、あなたがたの汚れなき母の真のおん子であるイエズスでも、キリストでもありません。
聖母から司祭へ1982.12.31
それで、あなたがたは、私と共に、三位一体に感謝を捧げなさい。三位一体の神は、その小さなはしためであるわたしを使って、全被造物が、完全に神を讃えるまで導こうとしておられるのですから。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ17・15/天使館P144
聖母がマリア・ワルトルタに:
マリア、わたしたちは常に、人びとが神に向かって登る階段になることができなければなりません。人びとに踏まれても少しも構わないのです。ただ彼らが十字架に向かって行くことができさえすれば。十字架は、善と悪の知識の果実が実る新しい木です。
マリア・ワルトルタ22・13/天使館P182
聖母がマリア・ワルトルタに:
わたしはマリアと呼ばれていました。その一つの意味である苦さは、いつも、神がわたしの心に流しておられる甘美さに混じっていました。そしてそれは、わが子の死に至るまで常に増大していきました。でも、マリアよ、神がその栄光のために犠牲としてわたしたちを召し出されるとき、おお! わたしたちの苦しみを、弱者を活気づけ彼らを天に辿り着かせることができるパンとなすために、挽き臼の中の小麦のように砕かれる幸せはいかばかりでしょう!
さあ、今はもうこれでたくさん。あなたは疲れているけれど幸いな人。わたしの祝福を受けてお休みなさい。