アレキサンドリーナ・マリア・ダ・コスタ
1904〜1955
『現代の神秘家アレキサンドリーナ・マリア・ダ・コスタ
におけるイエズスのご受難』
ウムベルト・Mパスクワレ神父編
A・デルコル神父訳/愛心館
1.人間となられた神
2.ご聖体
3.聖母
4.主はすべての未来を見通しておられた
5.主の全生涯は試練
6.主はご自身を与えたいと熱望される
1.人間となられた神
P62
なんという夜!ああ聖なる夜!すべての夜のなかのいちばん偉大な夜!
それは、もっとも偉大な奇跡、イエズスのいちばん偉大な愛の夜だった。
愛するすべての人に結ばれていたイエズスのみ心は、かれらのもとを立ち去るにしても、
なんとかして、かれらのあいだに残らねばならなかったのだ。
だからこそ、かれは、天にのぼるために、地上に残る方法が必要だった。
かれの神としての愛が、こんなことを要求するのだ。
P120
私は、そのユダの口づけを自分の顔に受けていた。
なんと残酷な口づけ!でも、愛にみちたイエズスのおん唇からは、やさしい声がよんでいた、「友よ!」と。
ああ、神にましますイエズスのみ心の、なんというやさしさ、ああ、はかり知れない愛よ!
P130
私は、イエズスを牢獄まで迎えに行くのを自分の魂のうちに感じた。
イエズスは、もうすっかり顔の形がくずれてしまったかと思われるような様子をして、死体ででもあるかのように冷たく凍えておられた。
寒さはこの上もなく、それに、おびただしい出血のあとなので、おん力も弱りはてて、ふるえていた。
私は、イエズスのすべてを感じた。そのおん悲しみも、力が弱り果て、全身びっしょりと汗にまみれてしまったことも。
イエズスのその苦しみ、その悩みをわが身に合わせている私の力も、やがて完全につきてしまった。
イエズスは、牢のなかでさえも、み手を縛られたままだった。
なんともいえない悲しげなみ声で、イエズスは私におおせられた。
「私の娘よ、ごらん、あの人々は、私を捕らえただけで、まだたりなかったのですよ、だからこうして、私の手を縛ったままです。ああ、人間の忘恩は、なんと恐ろしいものでしょう!」
それから、ひどい苦しみのうちに、こういいそえられるのであった。
「子らよ、私の子らよ、あなたたちの父である私をどうしてこんなふうに扱うのです?私がここにいるのは、あなたたちへの愛のためだけだったではありませんか?」と。
まるで犯罪人ででもあるかのように、手をしばられたイエズスをみたあのとき、どれほど、私の心がかたくなであったとしても、それは、私にとって、耐えがたい苦痛であった。
P222
おお、世界よ!人々の霊魂よ!イエズスは、どれほど私たちを愛してくださったことか!
さあ、私たちも、イエズスを愛そう。
私たちの苦しみは、イエズスのおん苦しみとくらべるなら、なんと小さく、とるにたらないものだろう!
イエズスのおん苦しみは、無限だった!それは、人間となった神の苦しみだったのだ。
イエズスを愛そう、いつも、いつも愛そう、昼となく、夜となく。
ああ、私の心は、迷った小鳥のようだ、あちこち飛びまわっては、
“どうか、愛をめぐんでください”と、イエズスのために、愛をものごいする。
2.ご聖体
P52
世界の悪は、かぎりなく積みかさねられ、上へ上へと伸びあがり、やがて天にまで届いてしまった。
悪は、神の正義に挑み、愛をいなんだ。
こうして、すべてが、世界も天もみな私をさげすむ。
私の魂は、全世界のために流れ、全世界から軽べつされ、ふみにじられている私の血をじっとみている。
全人類が私の肉を食べながら、すぐ吐き出してしまう。ああ、なんと恐ろしいこと!野獣の餌食となるほうが、どれほどましだろう!
私の心に新しい火がもえあがり、
私は、自分を与えたいと、せつにあこがれる。
永遠の糧で聖体に、飲みものとしてのおん血になろうとして!
P62
なんという夜!ああ聖なる夜!すべての夜のなかのいちばん偉大な夜!
それは、もっとも偉大な奇跡、イエズスのいちばん偉大な愛の夜だった。
愛するすべての人に結ばれていたイエズスのみ心は、かれらのもとを立ち去るにしても、
なんとかして、かれらのあいだに残らねばならなかったのだ。
だからこそ、かれは、天にのぼるために、地上に残る方法が必要だった。
かれの神としての愛が、こんなことを要求するのだ。
愛ゆえに苦しむ苦しみよ、おお、だれがあなたを理解できるだろうか?
私は、望んでやまない、みあるじのおん体とおん血に変わったパンとぶどう酒のこの奥義を、
すべての人が知ることを。
なんと不思議な奇跡、
だれもさぐりえない愛の淵よ。
私は、奥義を感じても、その完全な理解は、天国にのみあるだろう。
やさしいイエズスがパンを祝福しておられるのを、私はみた。
祝福されるときの、天をあおいだあのイエズスのまなざしが、私にいいあらわせたら、そして
みせてあげられるならと思う!
ほのおのように燃えるおん目を天にむけ、イエズスは、いつまでもいつまでも、永遠のおん父に祈られた。
燃えださんばかりにかがやくイエズスのみ顔は、私たち人間の顔というよりも、天のおんいのちのおもかげが宿っていた。
もう人間のようではなかった。神ご自身のようだった。
そうだ、愛に、愛そのものになっていたのだ。
ことばにつくせないほど光と愛は、みんなを包んだ、イエズスを、使徒たちを、私を!
ここにすばらしいことが実現している。イエズスは、魅力にみちたおんまなざしと、やさしいほほえみでパンを祝福し、まもなくみんなに配ろうとしておられた。
比類のない愛と奇跡のその瞬間に、世界が変わったのを、私は感じた。
イエズスがご自分をかてとして与えておられたのは、全人類に対してだった。
そうだ、イエズスは、天を旅だとうとして、かえって、人類のもとにとどまられた。
P65
ご聖体!ああ私の神よ、なんとすばらしいこと!
かぎりない不思議、イエズスがご聖体を制定されたとき、
心をうつその場面は、愛だけがみちみちていた!
P288
1954年 この年で、完全な断食と排泄の停止がはじまって十二年目であった。イエズスは、アレキサンドリーナにおおせられた、
「私があなたにこの世のいのちを与え、私だけがあなたの糧となったのは、ご聖体にどれほどの効力があるかを知らせるため、私のいのちが人々の霊魂にとって何であるかを知らせるためです。けっきょく、ご聖体こそ、人類のための光であり救いであることを、世に証明するためだったのです」(日記、1954年4月9日)と。
P267
それで十月のはじめ、イエズスは、かの女にこうおおせになった。
「私は、多くの人を私のもとに呼び集めるために、あなたを使います。人々は、あなたにはげまされて、ご聖体の神秘のうちにいる私を愛するようになるでしょう」と(ピニョ神父への手紙、1934年10月4日付)。
3.聖母
P236
私は、おん母にむかって、かすかな声でいった。
「私の母よ、世界をうけとってください。これは、あなたのものです!
世界は、私の血が生んだ子、
あなたの苦しみの子です、
世界を救うために私と協力してください」と。
深いため息とともに、こういってから、私は天をあおいで、「すべては。なしとげられた」といった。
P237
おん母から、私のほうに流れてくる救いの運河があった。
すべてが、私の心から、いやむしろ、私のうちにおられたイエズスのみ心から、マリアのみ心へと移っていった。
そのために、どんな霊魂も、恵みと、あがないの実を、おん母を通してうけるようになった。
私が、身にしみて、しかもありありと感じたことがあった。それは、おん母が、私たちの救いのために、どれほどイエズスに協力しておられるか、ということである。
私たちは、マリアにどれほど大きな負いめをもっていることだろう。
4.主はすべての未来を見通しておられた
P206
侮辱、拷問、罪悪が、荒波のように私におしよせてきた。
私が感じていたのは、ただカルワリオの残虐さだけではなかった、それは、全人類の残虐さであった。
私は、すべての時代をみとおし、ほんとうに、すべてのことを見ていたのである。
私があのとき、十字架の上からみていたのは、私をまとわれた(*)キリストのご受難を、それぞれの時代において新たにする罪悪であった。
(*)「私にのり移られた」という意味。
私は、全人類のひとりひとりが、どのように私を侮辱するかを見ていた。
あるものは、残酷のかぎり、悪意のかぎりをつくして、ほとんどあれくるっていた。
しかし、あるものは、強制されて侮辱していたし、またあるものは、自分がどんな悪をしているか分かりもしないで侮辱していた。
私は、あらゆることを感じていたし、すべてが私の前にあった、
過去も、現在も、そして未来の忘恩と罪悪も。
私は、自分の罪と全人類の罪を泣き悔やみたかった、何よりも、マグダラのマリアの痛悔と苦しみをもちたかったが、もたなかった(*)。
*ここではアレキサンドリーナは、イエズスと同一化していないと感じたから、こう書いた。
P43
「ああ、エルサレム、エルサレム、予言者たちを殺すものよ!」 マタイ23・37
私は、いつしかやさしい情け深いまなざしをエルサレムの町のむけていた。
それは、招きのまなざし、深いあわれみのまなざしだったのに、ああ、なんということだろう!そのエルサレムの町から、私にかえってくるものは、といえば、ただ、私への反逆だけだったのだ。
私は泣いた、いや、泣いたのは私の魂だった。あふれおちる私のこの涙は、父の涙、改心をよびかける、つきることのない招きであった。
たしかに、今はめぐみの時である。でも今はそのめぐみを受けとらないとしたら、もう永久にもどってはこないだろう。
私は、この町が今、どんな態度にでるか、また、将来、どんな態度をとるようになるかも、見ぬいていた。
この町にふりかかろうとする天罰を思い、せっかく今、支えられているのに利用されないだろうめぐみの時を考えると、私は、泣かないではいられなかった。
私の魂は泣きながら、全人類を眺めていた。私は、これから生まれてくるすべての人の心も、また、将来起こるどんな事件も、見ぬいていた。
5.主の全生涯は試練
P27
イエズスにとって、地上におけるそのご生涯は、なんと苦しみにみちていたことだろう!
かんらんの園と、カルワリオは数時間の苦しみではなかった。イエズスのご生涯そのものがみな、かんらんの園、カルワリオだった。
背丈も、知恵もますます増していくイエズスのうちに、十字架も、それとともに次第に大きくなっていった。
イエズスは、一瞬間たりとも、十字架からはなれたことはなかった。否、十字架のうちに成長し、十字架のうちに苦しみつづけておられた。
P48
イエズスは、世界のなかに入って、泥にまみれ、一つのかたまりのようになってしまわれねばならなかった。イエズスは、これを恐れておられたのだ。
イエズスにとって世界に下られるのは、火のなかにとびこむにも似たことだった。
でも、かれの神的愛はひじょうに激しかった。この愛がイエズスに私たちと結び合わされることを、私たちの悪意をご自分のものとして身にまとうことを要求していた。
最高に清いお方が不潔きわまりない泥と結びつけられるなんて、なんということだろう!
イエズスは、時おり天をながめては、永遠のおん父をほめたたえておられた。
P49
それは日ぐれであった。
私は、私の愛敬と美しさの服をはぎ取られ、世界じゅうの悪にいろどられた服にきせかえられたと感じた。
このために、すべての人が私につまずくのであった。
それほどあの服、堕落と悪で織られていたのだ。
全人類の悪が私の上にのしかかってくるように感じたとき、悪がみんな私のなかにはいって、私は[悪にみちた]世界となった。
私は、地のうじ虫になるために、天からくだるという感じがした。吐気をもよおさせる、くさったうじ虫に。
黒く汚れ、うじ虫のひしめく不潔な世界に、私は、穴をあけて、もぐりこむ虫のよう。
私は、嫌悪のあまり、もう耐えられないと思った。
でも、私の心は燃えはじめた。この燃える火のうえに世界じゅうのすべての罪悪が、地獄のような悪徳といきどおりがのしかかってきた。
この世界に天がくだり、こうして戦いが、巨大な戦いが、はじまった!世界と戦う天、虚無といどむ全能、それこそ泥と清さの戦争だ!
罪に死んだ世界のうえに天がくだっていた、大ぞらは、もえる炎のよう、
おお、私の神よ、どうしてこれほどの恐ろしい戦いが?!
でも、間もなく、私は、人々が神をおそれ敬っていないということが分かってきた。
6.主はご自身を与えたいと熱望される
P51
苦しみのなかで、私は世界にいのちと光を与えたいと熱望していた。
P52
世界の悪は、かぎりなく積みかさねられ、上へ上へと伸びあがり、やがて天にまで届いてしまった。
悪は、神の正義に挑み、愛をいなんだ。
こうして、すべてが、世界も天もみな私をさげすむ。
私の魂は、全世界のために流れ、全世界から軽べつされ、ふみにじられている私の血をじっとみている。
全人類が私の肉を食べながら、すぐ吐き出してしまう。ああ、なんと恐ろしいこと!野獣の餌食となるほうが、どれほどましだろう!
私の心に新しい火がもえあがり、
私は、自分を与えたいと、せつにあこがれる。
永遠の糧で聖体に、飲みものとしてのおん血になろうとして!