マグダラのマリア

1.聖書

2.ティベリアデ湖で、イエズスはマグダラのマリアに会う

3.見失った羊の譬え(ルカ15・1)

 

 

 

1.聖書

 

ルカ7・44−50

 

そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

 

 

ルカ10・38−42

 

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。

「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 

 

2.ティベリアデ湖で、イエズスはマグダラのマリアに会う

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P34〜

 

 イエズスは、十二人の使徒とともに二隻の舟に分かれてガリラヤのティベリアデの湖を行く。舟は涼しい風に乗って静かな水の上をすべるように走り、後に糸のような一筋の泡を起こす。二つの舟は、わずか離れて平行して進む。両方から話し交わしている言葉から察すると、ガリラヤ人たちがユダヤ人の仲間に、湖に面している主な場所、その商業、出発点から到着点までの距離、カファルナウムとティベリアデの間の距離などをいろいろ説明している様子である。二隻の舟は漁をしているのではなくただ人を運んでいる。

 

 イエズスはへさきに腰かけて、自分をとりまいている美しさとその静けさ、空と水とのその清い色を楽しんでいるように見える。湖の岸には、緑の中にところどころ白い小さい村がちらばっている。イエズスはへさきの、たたんだ帆にもたれて弟子たちの話に加わらず、サファイアのような水の底をのぞいて、そのいかにも清らかな水の中に生きているものに関心を持っているかに見えるが、しかし何を考えておられるのだろうか。太陽はかなり高く昇って、まだ燃えるような暑さではないが、日ざしは強く、ペトロが、その太陽を気にしていられるか、とイエズスに聞き、もう一度は他の人と同じようにパンとチーズを召し上がるかと聞く。しかし、イエズスは幕屋もパンも何もほしくない。ペトロはそのまま引き返す。

 

 紫色の天蓋とやわらかいクッションで豊かに飾られた遊びのための小舟何隻かが漁師たちの行く手を横切り、辺りかまわず音楽と嬌声と脂粉の香りをまき散らす。それは美女たちと、ローマとパレスチナの遊び人で満ちあふれている。しかし、パレスチナ人は少数で、ほとんどがローマ人であるが、中には幾人かのギリシャ人もまじっている。それは一人の若者の言葉から推測することができる。この若者はやせてひょろ高く、ほとんど熟しているオリーブの実のような顔色で、着ている赤い短い服の裾に重いギリシャ風の山形のかざりと金銀のかざり職人の傑作と見える帯をつけている。

「ギリシャは美しい。しかし私のオリンパス、私の祖国にさえもこのような青空とこのような花はない。女神たちは、ここに来るためにその国を去った。ユダヤのこの女神たちの上にバラの花びらを降らせよう」

 そして自分の小舟の女たちの上にみごとなバラの花びらをまき、またそれを隣りの舟に投げつける。一人のローマ人が答える。

「ギリシャ人め。バラなどいくらまいても、ヴィーナスは私と一緒にいる。私は、花びらをまくよりもこの美しい口からバラを拾う。その方がもっと甘い」

 そして、クッションにほとんど横になってローマ人のひざに金髪の頭をもたせかけているマグダラのマリアの笑いに、なかば開いている口に接吻する。これらの小舟は、重い漁師の舟にほとんど触れんばかりに近づき、漕ぐ人々の経験不足か風のせいか衝突寸前である。

「命が惜しいなら気をつけろ!」とかんかんに怒ったペトロが衝突を避けようとして力一ぱい櫓を押して舟をよけた。男たちの、ののしり合いと女たちの恐怖の叫びは舟から舟へひびく。ローマ人たちは、

「ヘブライ人の犬め。道をあけろ!」といって侮辱する。その侮辱に対してペトロと他のガリラヤ人たちは怒り、とくにペトロはおんどりのように真っ赤になる。彼は舟の端に立って、ローマ人もギリシャ人もヘブライ人の男女たちだれにも遠慮せずに悪口のありったけを投げつけ、特にヘブライ人の女たちに向かって、ペンに残す光栄を躊躇するような形容詞を贈る。

 

 この口げんかがお互いに舟の離れるまで続く。イエズスは姿勢をかえず腰かけたまま、そこにいないかのように小舟に対しても、それに乗っている人々にも言葉もなく見向きもしない。ひじにもたれて何事もなかったかのように遠く岸を眺めつづける彼に向かって、一輪の花が投げられた。なまめかしいふくみ笑いとともに投げられたそれは、だれからとも分からないが一人の女からのことは確かである。しかし、イエズスは何の反応も示さない。その花は顔に当たって舟底に落ち、烈火のごとくに怒っているペトロの足の方に行ってしまう。

 小舟が離れようとした時に、マグダラのマリアは端に立って彼女の友だちが指している方、すなわち遠くに見えるイエズスの顔の方へその美しい目を凝らすが、イエズスの顔は、この俗世から何と遠いことか。

 

「ねえ、シモン」とケリオットのユダが呼びかける。

「私と同じユダヤ人であるあんたは答えられるだろう。ローマ人が抱いていた、あの美しいブロンドの女。さっき端に立った彼女は、ベタニアのラザロの妹ではないか?」

「私は何も知らない」と熱心者のシモンはそっけなく答える。

「私は最近“生きる人々の世界”に戻ったばかりだし、あの女は若い・・・」

「あんたはベタニアのラザロを知らない、というつもりか。彼はあんたの友人で、先生と一緒に彼の家へ行ったのを私はよく知っている」

「そうだったら?」

「それらならラザロの妹の、その罪の女もあんたは知っているはずではないか。墓にいる人さえも彼女を知っている。彼女が、あのようにふしだらに生きるようになって人のうわさに上ってからでも十年はたっている。四年前からあんたが“死者の谷”にいたにしても、そのスキャンダルを知らないはずはない。全エルサレムは彼女のことをうわさしている。そのために、ラザロはベタニアにひっこんだ。考えれば彼はそうしてよかった。彼女が出入りしていたシオンの自分の壮麗な邸に、聖人である人が足を踏み入れるはずはなかろう。田舎では、まあまあいろんなことがあり得るが、彼女は、もはや自分の家以外どこにもいる・・・。今は、たしかマグダラにいるのだろう。だれかの新しい恋人と一緒に・・・。答えないのか。私の言うことは嘘だと反発できるか」

「反発はしない。ただ話したくない」

「そんなら、やっぱり彼女なのだな。あんたも彼女だと分かったのだろう」

「私は、彼女をかつて清らかな少女として見たことがあった。さっき久々に目にしたが彼女だと分かったのは、聖女みたいであった、その母の姿に生き写しだったからです。だが清らかさを失った」

「それなら、あんたの友だちラザロの妹であることを、どうして言いたくなかったのだ」

「われわれの傷、また愛する人々の傷はできるだけ隠すものだ。とくに正しい人だったら」

 ユダは苦笑いをする。

「シモン、あんたの言うとおりだ。あんたは正しい人間だから」とペトロが言葉をはさむ。

「あんたも彼女が分かっただろう、ペトロ。魚を売るために、あんたもマグダラに行くはずだから何回も彼女に出会ったにちがいない」

「まじめな商売のために腰が疲れて痛くなる時には、女に興味を持つひまなどない。自分の妻、自分の家を愛するだけだ」

「そうか。しかし美しいものはだれでも好きだ。少なくともそれを眺めるために」

「じゃあ、おまえの食卓のための食べ物ではないというつもりか。この湖と職業から私は、いろいろなことを習ったが、その中の一つはこれだ。“甘い水の魚は塩辛い水のためではない”」

「と言うと?」

「ただ犬死にしたくないなら、一人はだれでも自分の立場を守るべきだ」

「じゃあ、おまえはマグダラのマリアのために死ぬところだったか」

「いや、私の皮膚は固い。しかし、おまえこそ具合が悪かったろう」

「私? 私は彼女を見ようとさえしなかった」

「うそつきめ! 彼女にもっと近づきたくて私のこの舟に乗り込んだのだと賭をしてもいい。彼女の近くにいるためには、私のそばにいることさえも耐え忍んだのだろう。私の言うことに間違いはない。何日もの間私に話しかけたことがないのに。彼女のおかげで、おまえの声を聞く光栄が与えられた!」

「ふん。彼女は、私の方にまなざしを送るはずがなかった。絶えず先生を見つめていたからだ」

「ハッハッハ。彼女を見ていなかったというのに、その目の方向をどうして知ったのだ」

 ペトロのその言葉にケリオットのユダ、イエズスと熱心者のシモン以外の皆がどっと笑った。それを聞いているとも見えなかったイエズスは、そのくだらないおしゃべりをうち切ってペトロに尋ねる。

「向うに見えるのはティベリアデか」

「そうです先生。今からそこへ舟を近づけます」

「ちょっと待ちなさい。あの静かな入江にはいれるか? おまえたちだけに少し話したい」

「底を計ってみましょう」

 そして、ペトロは長い棒を下ろして、ゆっくりと岸に近づける。

「できます、先生。もっと岸に近寄りましょうか」

「できるかぎり。そこには、ちょうどよい日陰と静けさがある」

ペトロは岸辺の下まで行く。陸はせいぜい十五メートルしか離れていない。

「今だったら、そこに止められます」

「ではここに止めて。そして、おまえたちはできるだけそばに来て聞きなさい」

 

(続きは /ご参照)

 

 

3.見失った羊の譬え(ルカ15・1)

マリア・ヴァルトルタ/天使館/霊のパン/2008.10/3号/P11

 

1944年8月12日。

 イエズスは群集に話している。急流の樹々の植わる縁に登り、麦わらと乾いた刈り株の荒涼とした畑に点在して大勢の人々がいる。

 夕暮れ。夕闇は近いが月はもう昇っている。夏の初めの美しい明るい夕べである。囲いに戻る羊の群れの首につけたリンリンとなる鈴の音が、こおろぎか蝉の大きな合唱に混じって聞こえてくる。

 イエズスは通り過ぎて行く羊の群れをヒントに使って話を始める。

「あなたたちのは熱心な羊飼いのようです。

 良い羊飼いは何をするだろうか? 彼は羊のためにドクゼリや他の毒草が生えておらず、甘いクローバーや、香り高いミント、そして苦いけれど栄養のあるチコリがたくさん生えている良い牧草地を探します。彼は、良い草の他に、涼しい木陰と清らかな水の流れがある場所を探し、緑の草の中に毒蛇がいないか確かめます。彼は一番豊かな牧草地は好みません。そのような場所には毒蛇と毒草が多く、羊にとって危険だと知っているからです。その代わり、露が草を清潔に保ち、強い陽射しが毒蛇を遠ざけ、不健康な平地の空気とは違って、軽くて健康的な空気をそよ風が運んで来る山の牧草地を好みます。善い羊飼いは羊を一頭ずつ見守ります。彼は羊が病気にでもなったら治療し、怪我をしたら傷の手当てをします。彼らは食べ物に卑しくて病気になっている羊を叱り、湿った場所や日の当りすぎる場所に長居をし過ぎて病気になりそうな羊を別の場所に移動させます。そして、食欲の無い羊がいれば食欲をそそる酸味のある香り高い香草を探し、それらの羊に手を差しのべ、一人の友人のように話しかけます。

 に在します善きは地上をさすらうその子供たちに対してそのようになさる。その愛は彼らを集める杖であり、その声は彼らの道案内、その法は彼らの牧草地、彼らの羊小屋はです。

 しかし、一匹の羊が彼から去っていきます。はその羊をどんなに愛していたことか!その羊はまだ若く、純粋で、その毛は四月の空の雲のように真っ白だった。羊飼いはその羊のためにどれほど多くの善をほどこし、どれほど多くの愛を彼から得ることができるかを考えながら、愛情に溢れて、その羊を見ていたのでした。

 ところが、一匹の子羊は彼を見捨てた。牧草地に沿った道を誘惑者が通ったのだ。彼はいかめしい上着ではなく、色どりの派手な服を着ている。彼は斧とナイフを吊るした皮ベルトの代りに、ナイチンゲールのように美しい音色のする小さな鈴、それと、うっとりさせる香油の入った小さなガラスびんを吊るした黄金のベルトをしている・・・彼は、善い羊飼いが羊を集め護るために持っている杖を持っていない。善い羊飼いはその杖で十分でない時にはナイフと斧と、そして自らの命をかけて羊を護る用意があります。けれども、通りすがりのこの誘惑者は宝石で輝く香炉を手に持ち、その香炉からは悪臭と芳香を同時に放つ煙が立ち昇っています。こうして宝石の微妙な切り子面のように目をくらますのだ。―おお!なんという虚妄!―理性を狂わせる。彼は歌いながら通り過ぎ、暗い道の上に輝く塩をたっぷり撒く・・・

 九九匹の羊はそれを見つめ、動かない。百匹目の一番若くてかわいい羊が跳び上がり、誘惑者の後ろに消える。羊飼いはその羊を呼ぶ。けれど羊は戻って来ない。羊は通り過ぎたばかりに誘惑者について行くために、風よりも速く走る。走っている間、わが身を支えるために、撒かれていた塩をなめる。塩が喉を通るやいなや、羊は森の奥の深い緑の井戸水を渇望する不思議な、焼け焦がれるような狂乱状態になる。そして誘惑者の後について森に入り、倒れこみ、押し入り、上り、降り、そして転ぶ・・・一度、二度、三度と。そして、転ぶ度に首の周りに爬虫類のぬるぬるした抱擁を感じ、喉が渇いているので腐った水を飲み、お腹がすくと嫌悪をもよおすようなよだれで光っている野草を食べる。

 その間、善い羊飼いは何をするだろう? 彼は九九匹の忠実な羊を安全な場所に閉じこめ歩き始め、失われた羊の跡を見つけるまで止まらない。風に頼んで彼の呼び声を羊のもとへと運んでもらうが羊が彼のもとへ戻ってこないので彼が羊のもとへ行く。そして遠くから、自分を愛している羊飼いの顔にさえ懐かしさを感じないほど爬虫類のとぐろに巻かれて陶酔している羊を見つける。そして彼をあざ笑う。また善い羊飼いは、羊が他人の住まいに盗みに入り、あえて彼を見ようとしない罪深い羊と再会する・・・けれど、彼は愛想をつかさない・・・そして行く。羊を探し、後を追う。嘆き悲しみながら失われたものの跡を追う―被毛の切れ端すなわち霊魂のかすかな痕跡、血の跡、いくつかの犯罪、肉欲の証拠などを追跡して―ついに羊に追いつく。

 ああ! 愛する者よ、私はお前を見つけた。やっとお前に追い着いた! お前のために何と長い道を歩いたことか。お前を群れに連れ戻すために。気落ちしてうなだれることはない。お前の罪はわたしの心に埋めた。お前を愛している私以外にそのことを知る者は誰もいない。私は他の人々の批判から、お前を責めたてて投げる人々の石から、身をもってお前を護る。来なさい。傷を負っているのか? おお! その傷を見せなさい。その傷のことは分かっている。でも、お前が清らかだったとき、お前の羊飼いでお前の神である私を無邪気な目で見ていたときに抱いていたのと同じ信頼でその傷を私に見せて欲しい。ほら、これが傷だ。その傷もみな同じ名でよばれる。何と深い傷だ! お前の心の奥にこの傷を負わせたのは誰だ? 誘惑者だ、私はわかっている。彼は杖も斧も持っていないが、その毒を含んだ一噛みでもっと強い一撃を与えるのは彼であり、また彼の後ろで吊り香炉のまがい物の宝石で射かける者たち―その宝石の輝きでお前を誘惑し・・・お前の心を燃やすために日のもとに持ち出された地獄の硫黄だったのだ。見なさい、何とたくさんの傷か! 何とたくさんの毛がむしりとられ、血が流され、茨が突き刺さっていることか!

「おお、かわいそうな迷える霊魂よ! だが、言って欲しい。もし私がお前を赦したら、まだ私を愛してくれるだろうか? 言って欲しい。わたしが両腕を差しのべたら、私のもとに駆けて来るだろうか? 私に言って欲しい。お前は善き愛に渇いているか? それなら来なさい、そしてもう一度生まれなさい。神聖な牧草地に戻って来なさい。泣きなさい。お前と私の涙でお前の罪の痕跡を洗い流し、お前を燃えさせた悪ですっかり弱っているお前に栄養をつけるために、私は私の胸と血管を開き、お前に言う。『食べなさい。そして生きなさい』。さあ、お前を私の腕に抱けるように来なさい。急いで行こう、神聖で安全な牧草地へ。お前は絶望していたこの時間の全てを忘れるだろう。そして、お前の九九匹の善き姉妹たちは、お前の帰還をどんなにか喜ぶだろう。はお前に言う、の迷った子羊よ、お前の姉妹たちが喜ぶのは、が遠くまでお前を探し求め、追いつき、そして救ったからであり、善き人々の間では、囲いから一度も遠ざからなかった九九匹の正しい羊より、失われて見つかった一匹の羊のための喜びの方が大きいからだ。

 

イエズスは背後の道を一度も振り返って見ようとしなかったが、その道を通ってマグダラのマリアが夕暮の薄明かりの中、不意にやって来ていたのだ。彼女は今なお大変優雅で、少なくともきちんと服を着て、顔と体の線をあいまいにする暗い感じで暗い感じのヴェールで全身を覆っている。イエズスが「愛する者よ、お前を見つけた」と言う箇所からずっと、マリアはヴェールの下に手を入れ、静かにとめどなく泣く。

 彼女は道沿いの土手のこちら側にいるので、群集からは彼女を見ることができない。今や中天にかかる月とイエズスの霊だけが彼女を見ている・・・

 ・・・その御方はわたしに言われる。「コメントは、ヴィジョンのなかにあります。でもそれについては、改めてあなたに話そう。今はお休み、もう時間です。忠実なマリア、あなたを祝福しよう」。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P270

 

「先生、私は真剣に言っていますよ!私は一生懸命働いているのに彼女をごらんください。時間をむだに費やしています。見ているのに・・・」

イエズスの方は、もうちょっとまじめになる。

「マルタ、マルタ。それは時間を費やすということではない。それは愛である。怠惰、ひまつぶしは、前の生活だった。そしてあなたは、彼女のよくない、ひまつぶしのためによく泣いたではないか。あなたのその涙は、彼女を救って、あなたの正しい愛情に報いるために私の干渉を早めた。彼女が自分の救い主を愛していることについて文句を言いたいのですか。彼女がここから遠く離れて、あなたの忙しさを見ないだけでなく、私からも遠ざかっているのを望みたいのですか。マルタ、マルタ!この人は(そしてイエズスは彼女の頭の上に手を置く)遠くから来て、愛においてあなたを超えた、と言うべきでしょうか?善について一ことも知っていなかったこの人は、今は愛について知識深くなった、と言うべきでしょうか。この人を平和の中に、そのままほうっておきなさい。非常に長く病気だったが、今は回復中で、心を強める飲み物を飲んで治りつつあるのです。今まで非常に苦しんだ・・・。今、悪夢から脱出して自分の回り、また自分の中をみて“新しい”自分を発見し、“新しい”世界を発見しつつある。これはすべて確かです、と感じるようにしなさい。この自分の“新しさ”をもって過去を忘れ、永遠のいのちを取得すべきです。これは、働きをもっただけで得られるものではなく、礼拝をもって得られるものである。

 使徒と預言者とにパン一つを与えた人は報いを得る。しかし私を愛するために、食事さえも忘れる人は、二重の報いを受けるでしょう。なぜなら、その心は肉体よりも大きい。人間の正しい望みにまさる強い“望み”をもっているからです。あなたはあまり多くのことのためにいろいろ忙しくなっている。マルタ、この人は一つのことだけを心にかけているのです。これは彼女の心にとって、何よりも自分の、また、あなたの主にとって大事なものです。むだなことをほうっておいて、あなたの妹に倣いなさい。マリアは、自分から、もうとり除かれることのない、よりよい方を選んだ。すべての徳は、み国の市民たちにもはや必要ではなくなる時に、すべての徳が過ぎ去る時に、唯一のものとして愛が残る。これはいつまでも残る。唯一のもの、そのすべてを超えるもの。この人、マリアはこれを選び、これを自分の盾と杖としてとった。これをもって天使の翼に乗ったかのように私の天に来るであろう」

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P307

 

 「皆、出ろ! こう言えるのは、マルタのはずだが、彼女は、あなたたちを恐れているから。しかし私は、私をゆるしてくださった神に背くこと、それだけを恐れている。こうしてマルタの代りに言う、皆、出ろ! この家では、イエズス・キリストを憎む人のために場所がない。さあ、外へ! おまえたちの闇の穴ぐらへ! 皆、外へ。それとも、おまえたちを不浄の乞食の群れのように、うちの僕たちに追い出させようか」

 その憤慨でいきり立ったマリアが、美しく、威厳をもって叫ぶ。極端に卑怯ものであるユダヤ人たちは、彼女の前にコソコソ行く。かの婦人は、憤慨している大天使さながらである。

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P310

 

 「ニコメデス、彼は神様です。そのためにできる。あなたが流体と呼んでいるその力は、神としてのご自分のおぼしめしです」とマリアが言う。

「私は、あなたたちの信仰を決してからかうものではない。むしろ、不可能とみえるところまで至るようにその信仰を励ましたい。そのほかに、いつか神がこの地球に下った、とも書かれている。私は・・・そんなことを今まで信じたことはないが・・・。しかし今は、人間として、また医学者としての学問と良心とをもって、そのようなことがありうると言いたい。なぜなら、かのガリラヤ人は、だれかの神だけが行いうる治癒を行うからです」

「ニコメデス、だれかの神ではなく、まことの神です」

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P312

 

マリアは、彼女(マルタ)をつかまえて命令する。

「黙りなさい! 黙って! 彼(ラザロ)が聞くかもしれない。私は彼をあなたよりも、そしてあなたよりも良く愛しているが、自分自身を抑えるのを知っている。その代わりにあなたは、病気のくだらない女みたいです。黙っていなさい!運命を変えるのも、人の心を動かすのも、あなたみたいな、いらだちによってではない。そうしているのは、私の決心を変えさせるためだったら全くまちがっている。よく考えなさい。私の心は、従順のためにくずれそうだがそこで我慢している」(中略)

「すべて! すべてがある、とあなたは言うべきです!実にあなたは先生の話を聞いていると、彼が話していることに非常に注意していると見えるのに、すぐあとで何でも忘れてしまう。彼が愛すること、従順であることは、私たちを神の子供、また、そのみ国を継ぐ者にする、と何回もくり返されたではないか。そうしたら私たちは、私たちの忠実さをもって、神とそのみ国を得るならば、私たちには、もう何も残らない、とどうして言えるのか?善において、従順において、希望、信仰、愛において、無条件であるには、私が悪においてそう出会ったように絶対的であるべきです」

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P351

 

イエズスが声高く言う。

「私は、あなたに言う。泣くな。立ちなさい! 私を見よ! あなたをこんなに愛した私が、どんな理由もなくこんなことをしたと思うか。私が、あなたにこんな苦しみをむだに与えたと思えるか? おいで、ラザロのところへ行こう。彼をどこに置いたのか」

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P362

 

「私の師よ!私はもはや、いつでも希望し信じます。私は、もう疑うことはありますまい。主よ、決して。私は信仰で生きるものとなりました。あなたは私に信じられないことを信じるという能力をくださいました」

「そして、あなたマルタは? あなたも習いましたか?・・・いいえ、まだ・・・あなたは私のマルタである。しかし、まだ私の完全な礼拝者ではない。あなたは、なぜ、いろいろ活動し、観想をしないのか? それはもっと聖なることです。ごらん、あなたの力が地上のことにあまり向いているがために、時として直しもつかないとみえるこの世のことは、神ご自身が干渉されないならば、癒しようのないものです。そのために人間が信ずる、また観想する必要があるのです。考え、心、肉体、血、という全人間のすべての力をもって徹底的に最後まで愛することです。くり返していうが、“人間のすべての力をもって”。マルタ、私はあなたが強いものであってほしい。完全なものであってほしい。あなたが服従するのを知らなかったのは、全く信ずる、また希望するのを知らなかったからです。しかし私はそのことであなたをとがめるのではない。マルタ、私はあなたをゆるします。今日、私はラザロをよみがえらせた。今、あなたにもっと強い心を与える。彼には命を返した。あなたには、完全に愛し、希望し、信ずるという力を注ぐ。今から、あなたたち三人は、幸せで平和でありますように。この日々にあなたたちを侮辱した人たちをゆるしなさい」

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P411

 

ペトロ:「しかし彼が、今、戻られた御父のふところから私をゆるしてくださるにしても、私は自分自身をゆるせない。『私はあの人を知らない』と言ったこの私を!

 

それはあの時に彼を知っていることは危険であったから。私は彼の弟子であることを恥ずかしく思い、拷問を恐れたからだ・・・。彼は死にに行くのに、私は・・・自分の命を救うことばかり考えた。そして、この命を救うために、女が罪によって懐胎して生んだ子供を夫が帰る前に捨てると同じように彼を捨てたのだ! 私は姦通の女よりも悪い・・・」

その叫びに、マグダラのマリアが入ってくる。

 

「そんなに喚くな。母マリアが聞かれるではないか。疲れはてておられる。何の力もなく、すべてが苦しみのもととなる。それにむだな、分けの分からないおまえの叫びは、受難の時のおまえたちが何であったかの、あの苦しみを思い出させる・・・」

 

「ヨハネ、聞いたか?ごらん、一人の女は、私に黙るようにと命令している。しかし、それはもっともだ。なぜなら主に聖別されているわれら男子たちは偽りを言うか、それとも逃げるしか知らなかったのに、女たちはえらかった。おまえは若くて清いので、いささか女みたいだから、おまえだけが残った。強いものわれら、男子のわれらが逃げた。

おお! 世間はどんなに軽蔑するだろう! 女よ、言え。そう私に言え! あんたの言うとおりだ。偽りを言った私の口をあんたの足で踏め! サンダルの底には、多分、彼の血が残っているかもしれない。そして道のほこりにまざったその血だけが、この裏切り者にちょっとしたゆるし、ちょっとした平和を与えるかも。私はどうしても世間の軽蔑に慣れるべきだ。私は何だろう?  さあ言え、私は何だ?」

 

「おまえは大いなる傲慢でしかない」とマグダラのマリアが静かに答える。

 

「苦しみか?それもあろう。しかし、おまえの苦しみの十分の五 ―あまり侮辱しないように六、と言わないが― は、軽蔑されうる一人の人間になったという苦しみのためです。

しかし、おまえが愚かな女みたいに嘆いたり、取り乱しつづけるならば、本当に私もおまえを軽蔑する!やったことは、もうやったことです。そして、それを償う。あるいは消してしまうのは、あのような訳の分からない叫びではない。

それは他人の注意を引くだけで、おまえに値しない同情を乞食するだけです!おまえの後悔で男らしくあれ、キャンキャン喚くな。

おまえは・・・おまえは・・・私が、だれだったかを知っているでしょう。しかし私は自分が反吐よりも軽蔑に値するものであると分かった時に、めちゃくちゃにいら立ったり、喚いたりしなかった。ただ私は皆の前で行った。自分自身に対して同情せず、また他人の同情も請わなかった。

世間は私を軽蔑していたというのか。もっともだった。それは私に値するだけのものだった。世間は“あんな娼婦の新しい気まぐれ”と言っていた。そして私がイエズスへ近づくのも冒涜の名前を与えていた。彼らの言うことにも一理あった。前の私の生活を、世間がちゃんと覚えていた。そして、それは彼らのどんな邪推をもゆるすものだった。

では? 世間は今、マリアはもう罪の女ではなくなったと納得した。私の新しい生活をもって説得させた。おまえも同じように黙りなさい」

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P204

 

 復活者はあまりにも美しい変容を遂げていたので、マグダラのマリアは、が自分だとわからせるまで、彼を見分けられなかった。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/天使館第4巻上P77

 

 それから、今夜わたしのイエズスは私(マリア・ヴァルトルタのこと)に微笑みながら言われる。

わたしはあなたをダニエルと呼ぶべきだろう。あなたは望みを持ち、あなたのを熱望しているので、わたしにとって大切な人です。わたしの天使によってダニエルに告げられたことをあなたに言い続けることができます。『恐れることはない。の前に心を尽くして苦行し神意を知ろうとし始めたその最初の日からお前の祈りは聞き入れられており、お前の祈りのためにわたしは来た』(ダニエル10・12)。しかし、ここで話しているのは天使ではありません。わたしイエズスが話しているのです。

 ああ、マリア、誰かが『神意を知ろうとして心を傾ける時』、わたしはいつでも来ます。わたしは厳しい、容赦無用のではありません。わたしは生ける憐れみですわたしを求める人のところへ、考えるよりも素速く行きます。そして、こんなにも罪の中に浸っていた哀れなマグダラのマリアのもとにも、彼女のうちに神意を知ろうという願望が生まれるのを感じるやいなや、素速くわたしの霊と共に行きました。神の光に照らして理解し、彼女の闇の状態を理解することでした。そしてわたしは彼女のとなりました。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/4卷上P143/242.11

 

 マッダレーナは胸の上で手を握り締め、あっけにとられながらも顔には輝きを浮かべている。それから、跪いたままイエズスの前ににじり寄る。「おお! 主よ! わたしでも人を善に導くことができるのは本当ですか? おお! わが主よ! これは身に余るお恵みです!」。そして身を屈め、顔を草に埋めてイエズスの足に口づけする。マグダラの大いなる愛の人として感謝の涙と共に。