見失った羊の譬え
ルカ15・1
ルカ15・1−7
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と不平を言い出した。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
天界の秘義5992[3]
とくに天使たちは人間のもとに在る善と真理とを呼び出し、それらを悪霊らのかき立てる悪と誤謬とに対立させている。かくてその人間はその真中におかれて、悪も善も認めはしない、また真中にいるため、自分自身を悪にも善にも向ける自由を持っている。このような手段によって主から天使たちは人間を導き、守っており、しかもそれは一瞬毎に行われ、実に一瞬の一瞬毎に行われているのである。なぜならもし天使たちが万が一一瞬でもその庇護を中絶するなら、その人間は悪へまっさかさまに投げ落とされ、そこからその後は決して引き出されることはできないからである。これらの事柄を天使たちは主から得ている愛から行っている、なぜならかれらは人間から悪を遠ざけて、かれを天界へ導くことにまさって歓ばしい、幸福なことを何一つ認めはしないからである。そのことがかれらの喜びであることについてはルカ15章7節を参照されたい。主は人間をこのように守られており、しかもそれがその者の生命の最初の糸からその最後の糸までも、後には永遠にいたるまでも絶えず行われていることをほとんどたれも信じてはいないのである。
マリア・ヴァルトルタ/天使館/霊のパン/2008.10/3号/P11
1944年8月12日。
イエズスは群集に話している。急流の樹々の植わる縁に登り、麦わらと乾いた刈り株の荒涼とした畑に点在して大勢の人々がいる。
夕暮れ。夕闇は近いが月はもう昇っている。夏の初めの美しい明るい夕べである。囲いに戻る羊の群れの首につけたリンリンとなる鈴の音が、こおろぎか蝉の大きな合唱に混じって聞こえてくる。
イエズスは通り過ぎて行く羊の群れをヒントに使って話を始める。
「あなたたちの父は熱心な羊飼いのようです。
良い羊飼いは何をするだろうか? 彼は羊のためにドクゼリや他の毒草が生えておらず、甘いクローバーや、香り高いミント、そして苦いけれど栄養のあるチコリがたくさん生えている良い牧草地を探します。彼は、良い草の他に、涼しい木陰と清らかな水の流れがある場所を探し、緑の草の中に毒蛇がいないか確かめます。彼は一番豊かな牧草地は好みません。そのような場所には毒蛇と毒草が多く、羊にとって危険だと知っているからです。その代わり、露が草を清潔に保ち、強い陽射しが毒蛇を遠ざけ、不健康な平地の空気とは違って、軽くて健康的な空気をそよ風が運んで来る山の牧草地を好みます。善い羊飼いは羊を一頭ずつ見守ります。彼は羊が病気にでもなったら治療し、怪我をしたら傷の手当てをします。彼らは食べ物に卑しくて病気になっている羊を叱り、湿った場所や日の当りすぎる場所に長居をし過ぎて病気になりそうな羊を別の場所に移動させます。そして、食欲の無い羊がいれば食欲をそそる酸味のある香り高い香草を探し、それらの羊に手を差しのべ、一人の友人のように話しかけます。
天に在します善き父は地上をさすらうその子供たちに対してそのようになさる。その愛は彼らを集める杖であり、その声は彼らの道案内、その法は彼らの牧草地、彼らの羊小屋は天です。
しかし、一匹の羊が彼から去っていきます。彼はその羊をどんなに愛していたことか!その羊はまだ若く、純粋で、その毛は四月の空の雲のように真っ白だった。羊飼いはその羊のためにどれほど多くの善をほどこし、どれほど多くの愛を彼から得ることができるかを考えながら、愛情に溢れて、その羊を見ていたのでした。
ところが、一匹の子羊は彼を見捨てた。牧草地に沿った道を誘惑者が通ったのだ。彼はいかめしい上着ではなく、色どりの派手な服を着ている。彼は斧とナイフを吊るした皮ベルトの代りに、ナイチンゲールのように美しい音色のする小さな鈴、それと、うっとりさせる香油の入った小さなガラスびんを吊るした黄金のベルトをしている・・・彼は、善い羊飼いが羊を集め護るために持っている杖を持っていない。善い羊飼いはその杖で十分でない時にはナイフと斧と、そして自らの命をかけて羊を護る用意があります。けれども、通りすがりのこの誘惑者は宝石で輝く香炉を手に持ち、その香炉からは悪臭と芳香を同時に放つ煙が立ち昇っています。こうして宝石の微妙な切り子面のように目をくらますのだ。―おお!なんという虚妄!―理性を狂わせる。彼は歌いながら通り過ぎ、暗い道の上に輝く塩をたっぷり撒く・・・
九九匹の羊はそれを見つめ、動かない。百匹目の一番若くてかわいい羊が跳び上がり、誘惑者の後ろに消える。羊飼いはその羊を呼ぶ。けれど羊は戻って来ない。羊は通り過ぎたばかりに誘惑者について行くために、風よりも速く走る。走っている間、わが身を支えるために、撒かれていた塩をなめる。塩が喉を通るやいなや、羊は森の奥の深い緑の井戸水を渇望する不思議な、焼け焦がれるような狂乱状態になる。そして誘惑者の後について森に入り、倒れこみ、押し入り、上り、降り、そして転ぶ・・・一度、二度、三度と。そして、転ぶ度に首の周りに爬虫類のぬるぬるした抱擁を感じ、喉が渇いているので腐った水を飲み、お腹がすくと嫌悪をもよおすようなよだれで光っている野草を食べる。
その間、善い羊飼いは何をするだろう? 彼は九九匹の忠実な羊を安全な場所に閉じこめ歩き始め、失われた羊の跡を見つけるまで止まらない。風に頼んで彼の呼び声を羊のもとへと運んでもらうが羊が彼のもとへ戻ってこないので彼が羊のもとへ行く。そして遠くから、自分を愛している羊飼いの顔にさえ懐かしさを感じないほど爬虫類のとぐろに巻かれて陶酔している羊を見つける。そして彼をあざ笑う。また善い羊飼いは、羊が他人の住まいに盗みに入り、あえて彼を見ようとしない罪深い羊と再会する・・・けれど、彼は愛想をつかさない・・・そして行く。羊を探し、後を追う。嘆き悲しみながら失われたものの跡を追う―被毛の切れ端すなわち霊魂のかすかな痕跡、血の跡、いくつかの犯罪、肉欲の証拠などを追跡して―ついに羊に追いつく。
ああ! 愛する者よ、私はお前を見つけた。やっとお前に追い着いた! お前のために何と長い道を歩いたことか。お前を群れに連れ戻すために。気落ちしてうなだれることはない。お前の罪はわたしの心に埋めた。お前を愛している私以外にそのことを知る者は誰もいない。私は他の人々の批判から、お前を責めたてて投げる人々の石から、身をもってお前を護る。来なさい。傷を負っているのか? おお! その傷を見せなさい。その傷のことは分かっている。でも、お前が清らかだったとき、お前の羊飼いでお前の神である私を無邪気な目で見ていたときに抱いていたのと同じ信頼でその傷を私に見せて欲しい。ほら、これが傷だ。その傷もみな同じ名でよばれる。何と深い傷だ! お前の心の奥にこの傷を負わせたのは誰だ? 誘惑者だ、私はわかっている。彼は杖も斧も持っていないが、その毒を含んだ一噛みでもっと強い一撃を与えるのは彼であり、また彼の後ろで吊り香炉のまがい物の宝石で射かける者たち―その宝石の輝きでお前を誘惑し・・・お前の心を燃やすために日のもとに持ち出された地獄の硫黄だったのだ。見なさい、何とたくさんの傷か! 何とたくさんの毛がむしりとられ、血が流され、茨が突き刺さっていることか!
「おお、かわいそうな迷える霊魂よ! だが、言って欲しい。もし私がお前を赦したら、まだ私を愛してくれるだろうか? 言って欲しい。わたしが両腕を差しのべたら、私のもとに駆けて来るだろうか? 私に言って欲しい。お前は善き愛に渇いているか? それなら来なさい、そしてもう一度生まれなさい。神聖な牧草地に戻って来なさい。泣きなさい。お前と私の涙でお前の罪の痕跡を洗い流し、お前を燃えさせた悪ですっかり弱っているお前に栄養をつけるために、私は私の胸と血管を開き、お前に言う。『食べなさい。そして生きなさい』。さあ、お前を私の腕に抱けるように来なさい。急いで行こう、神聖で安全な牧草地へ。お前は絶望していたこの時間の全てを忘れるだろう。そして、お前の九九匹の善き姉妹たちは、お前の帰還をどんなにか喜ぶだろう。私はお前に言う、私の迷った子羊よ、お前の姉妹たちが喜ぶのは、私が遠くまでお前を探し求め、追いつき、そして救ったからであり、善き人々の間では、囲いから一度も遠ざからなかった九九匹の正しい羊より、失われて見つかった一匹の羊のための喜びの方が大きいからだ。
イエズスは背後の道を一度も振り返って見ようとしなかったが、その道を通ってマグダラのマリアが夕暮の薄明かりの中、不意にやって来ていたのだ。彼女は今なお大変優雅で、少なくともきちんと服を着て、顔と体の線をあいまいにする暗い感じで暗い感じのヴェールで全身を覆っている。イエズスが「愛する者よ、お前を見つけた」と言う箇所からずっと、マリアはヴェールの下に手を入れ、静かにとめどなく泣く。
彼女は道沿いの土手のこちら側にいるので、群集からは彼女を見ることができない。今や中天にかかる月とイエズスの霊だけが彼女を見ている・・・
・・・その御方はわたしに言われる。「コメントは、ヴィジョンのなかにあります。でもそれについては、改めてあなたに話そう。今はお休み、もう時間です。忠実なマリア、あなたを祝福しよう」。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P112
‘88・1・24
(イエスは悲しみのうちに 頭を片方に少し曲げ 聖心に手を挙げられました。しばらくこうしたままでした。とてもお美しいお姿で。)
私は我が教会の外にいる多くの人びとを訪れている、そう、・・・みじめな霊魂たち(*)、・・・改心させて 私に熱心に従わせ、使徒とし、聖人にした、それでいて、教会の多くの権威ある人びとはこうした私のわざを見落とし 無視する、この霊魂たちを全く認めようとはしない、知ろうともしない、彼らの分け隔てによって多くが拒まれてきた。「神は修道服をまとった敬虔な霊魂たちにしか訪れない」という理論は間違っている。あなた方は大きな誤りを犯している!
*
こう言われた時、イエスのお声は優しく悲しみを込めたものでした。
(穏やかな悲しみを湛えたイエスは 今は苦渋に満ちておられました。)
♡ どれほど多くの霊魂に近づいたか あなた方が知ったなら、この人びとは必ずしも修道服を着ていなく、私に献身的でさえなかった ところが聖人に変えられた!
(それからジェームズ神父の目をまっすぐとのぞき込むようにして、イエスはしみ透る眼差しを 投げかけられました。)
愛する者よ、香りによってあなた自身が私の現存を識別したことを 本当に忘れてしまったか? 我が香りであなたを包み 祝福したのを! さあ、今に学ぶであろう ♡ 私は多くの霊魂を我が平和と愛のメッセージで回心させ、失われた仔羊たちは戻って来て 腕に飛び込んできてくれた、喜びなさい 霊魂よ! 迷子の仔羊が主人を見つけるほど 大きい奇跡があろうか! 羊飼いにとっても 迷子の羊を再び見出す以上の喜びがあろうか(*)! 私の誉れとなりなさい ジェームズ・・・私のわざに栄光を与えなさい 愛する者よ・・・私の種子を蒔きなさい、私の誉れとなり 平和と愛の十字架を担いなさい、羊飼いの呼びかけに気づいて、我が救いの奇跡を 兄弟たちに知らせなさい! 隣り人たちに告げなさい! よい知らせを告げなさい、私のわざを知らせなさい! 私のわざが知られ、奇跡が知られるように。 私はあなたを訪れ あなたの燭台に油を注いだ、我が光を与えた、あなたの床の下にこの明りを隠してしまわないように、そうしたら役に立たない、さあ、台の上で輝くようにあなたの燭台に油を注いだのだから喜びなさい 兄弟よ、皆がその明りを見て 私からのものであることを知るように ♡ 私はあなたを訪れた 霊魂よ、あなたには私が分かった 霊魂よ、私を招き入れてくれて 私はあなたの食事を分かち合った、喜びなさい! 私の神聖なわざを宣言し、皆に見えるよう 我が光を屋根の上に掲げて私を讃えなさい ジェームズ、皆が見えるようにしなさい、この明りを見たなら、皆ははるばる遠くから集まってくる、私がどうやってあなたを訪れ この明りを与えたかを知らせなさい ♡ 私の平和を持つように、♡♡♡
*イエスは、いくらかテノールがかったお声でこう仰る時、喜びに溢れていらっしゃいました。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々/2巻P64
おまえたちの伝道旅行で悪人に出会ったなら、ファリサイ人のような態度は取らないように。ファリサイ人たちはすぐに皆を軽蔑するが、まず心が腐っている自己を軽蔑するようなことはしない。悪人でも大きな愛をもって迎えなさい。“限りない愛をもって”と言いたいほどです。(中略)
“人間の心を変えるのは、おまえたちがどのように話しているかではなく、どのように愛しているかによって決まります”罪人たちに会う時は、この人たちを愛しなさい。迷った弟子たちのことで苦しむこともあるでしょう。愛をもってこの人たちを救うよう努め、迷える羊のたとえを思い出しなさい(おお、これは何世紀にもわたって罪人に聞かせる実に優しい呼びかけとなるはずです)。
(中略)
どのように愛すべきか、私が模範となります。おまえたち、また、おまえたちの後に続くすべての人は、私のとおりにすべきです。新しい時代がやってきます。 愛の時代が。 私は、この灯を人間の心にともすために来ました。
天界の秘義2077〔2〕
主が抱かれた愛は人間の理解を全く超越しており、またそれは天使たちが抱いている天界的な愛のいかようなものであるかを知らない者らには、最高度に信じがたいものである。一つの霊魂を地獄から救うためには天使たちは死さえも何らかえりみはしない。否、できることなら、彼らはその霊魂のためには地獄の責苦もいといはしないのである。ここから死んだ者たちからよみがえりつつある者を天界に連れて行くことは彼らの喜びの最も深いもの[最も内なるもの]となっている。しかし彼らはこの愛はその一かけらも彼ら自身からは発しておらず、そのすべてのものは全般的にも個別的にも主のみから発していると告白しており、否、もし誰かがそのように考えはしないなら、明らかにいらいらした感情を示すのである。
わたしのことばを書きとらせた理由/イエズスが口述された福音書の最後の言葉/
マリア・ヴァルトルタ/天使館/霊のパン第4号/P16〜32
V わたしの周囲で動揺した様々な霊界を研究して、霊の師たちと霊魂の指導者たちの役目を助け、霊たちを救うためにわたしがとった様々な方法を彼らに知らせることです。なぜなら、たった一つの方法をすべての霊魂に当てはめるのは愚かだからです。自発的に完徳を目指している一義人をそこへ引きつける方法は、罪人である一信徒に適用される方法や一異教徒に用いられる方法とは違います。あなたたちの先生のように判断するに至るなら、あなたたちの間にも、権力と横暴を、あるいは黄金を、あるいは肉欲を、あるいは彼らの知識への傲慢の偶像を、真の神と取り替えた哀れな異教徒たちがたくさんいます。また、現代の新加入者たち、すなわちキリスト教的思想を受け入れはしても、離教した教会に属し、キリスト教的な国籍を受け入れない人たちを救うためにとられねばならない方法は異なります。誰をも見落とされてはなりません。他のすべての羊にもまして、これらの迷える羊たちを愛し、彼らを唯一の群に連れもどそうと捜している、牧者イエズスの望みが叶えられるよう努めなさい。