善きサマリア人

 

 

1.サマリア・・真理に対する情愛

 

天界の秘義9057[2]

 

聖言の内なる意義を理解している者はなぜ主が、サマリア人は『その打ち傷に包帯をして、油とぶどう酒を注ぎ、かれを自分自身の獣にのせた』と言われたかを知ることができるのである。なぜなら内意では『サマリア人』により真理に対する情愛の中にいる者が意味され、『打ち傷を包帯すること』により、この情愛が害われたとき、それをいやすことが意味され、『油とぶどう酒とを注ぐこと』により愛の善と信仰の善とが意味され、『かれを自分自身の獣にのせること』により自分自身の理知的なものによりかれをもち上げることが意味されているからである。

 

かくてこれらの言葉により隣人に対する仁慈が記されており、世の人間に対しては自然的に、天界の天使たちに対しては霊的に、(すなわち)文字の意義では自然的に、内意では霊的に記されているのである。『サマリア人』が真理に対する情愛の中にいる者を意味している理由は、『サマリア』は聖言ではこの情愛を意味しているということである(『油』は愛の善を意味していることについては、886、3728,4582番を参照し、また『ぶどう酒』は信仰の善を意味していることについては、1798、6377番を参照し、『荷役用の獣』は理知的なものを意味していることについては、2761、2762,2781、3217、5321、5741,6125、6401、6534、7024、8146、8148番を参照されたい)。

 

主はこのように語られたのであるが、しかし僅かな者しかこのことを理解していない、なぜならかれらはこうした事柄はたんにそのたとえ話しに物語りの関連性を与えるためにのみ言われたのであると信じているからである、しかしもしそうだとするならそれは神的なもの[神]から発した言葉ではないのである。神的なものから発した言葉はすべてその中には主と天界と教会とにぞくしている事柄を含んでおり、それが凡ゆる一点にさえも言われるのである(前の9049番を参照)。

 

 

黙示録講解375ホ(42)

霊的な意味ではこれらの事柄は以下のように認められている、すなわち、『サマリア人』は隣人に対する仁慈の善の中にいた異邦人を意味し、『盗人』により傷つけられた人は地獄から来ている者らにより―かれらは人間の霊的生命を害い、破壊するため、盗人であるが、そうした者らにより―悩まされている者たちを意味し、『かれがその傷口に注いだ油とぶどう酒』は人間をいやす霊的な事柄を意味し、『油』は善を、『ぶどう酒』は真理を意味しており、『かれがその者をかれ自身の獣に乗せた』ことは、かれはそのことを為し得る限りその者の理知に応じて行ったことを意味し、馬と同じく『荷を運ぶ獣』は知性を意味しており、『かれはその者を宿屋に連れて行き、かれらにその者の世話をするように話した』ことは、聖言から教会の教義を良く教えこまれていて、依然無知である者よりもさらに良くその者をいやすことができる者たちのもとへ連れてくることを意味している。このようにこれらの言葉は天界では理解されており、それらの言葉から、主は世におられたときは純粋に相応したものから話され、かくて世のために、また天界のために同時に話されたことが明白である。

 

黙示録講解584(5)

エルサレムからエリコに降って行った男に強盗どもが加えた傷[禍い](ルカ10・30)

もまた、学者とパリサイ人らにより、宿っていた者と異邦人とに注ぎ入れられた誤謬と悪であった霊的な傷を意味しているのである。(前の444番ハを参照されたい、そこにこのたとえの霊的な意味が説明されている)。

 

黙示録講解444ハ

これは隣人に対する仁慈をとり扱い、また善い業を―それにより仁慈が現実に行われて、その充分な状態に在るが、その善い業を―とり扱っている。ここの『エルサレム』は真の教義が存在している教会を意味し、『エリコ』は真理と善とにかかわる知識が在る教会を意味し、それで『祭司』は主に対し何らの愛も持っていない者らを意味し、『レビ人』は、当時エルサレムの中にいた者らのような、隣人に対する何らの仁慈も持っていない者らを意味しているが、しかし『サマリア人』は仁慈の善の中にいたいくたの国民を意味しており、『エルサレムからエリコに降って行く人間』は教会の諸真理と諸知識とを教えられようとねがった者たちを意味し、『かれがその群の中に陥った強盗共』は当時のユダヤ教会のような歪められた教会の中の者らを意味し、『かれらはかれを剥ぎとり、かれを打ち、半死半生のままに棄て去った』は、かれらはかれから諸真理を奪い去って、これにいくたの誤謬を浸透させ、かくていかような霊的生命もほとんど残らないほどにも霊的生命に危害を加えることを意味し、『剥ぎとること』は聖言には諸真理を剥ぎとることを意味し、『打つこと』はいくたの誤謬により心と霊的生命とを害することを意味し、『半死半生になること』はほとんどその生命を欠いてしまうことを意味し、『憐れみの念に心を動かされること』は内部から発する慈悲と仁慈とを意味し―慈悲と仁慈とはまた一つのものとなっており―『傷を包帯し、油とぶどう酒とを注ぎ入れること』は、かれに愛の善と信仰の真理とを教えることにより、かれの生命を害しいくたの誤謬に対する救いを供えることを意味し、『油』は聖言では愛の善を、『ぶどう酒』は信仰の真理を意味し、『かれが己が獣に乗せること』は、可能な限りかれの理解に従って、を意味し、『(獣と同じく)馬』は理解を意味し、『宿屋にかれを連れて行き、かれの世話をすること』は、善と真理とにかかわるいくたの知識をさらに良く教え込まれている者たちのもとへかれを導いて行くことを意味し、『宿屋』は食物と飲物とが買われる所であり、それは善と真理とにかかわるいくたの知識を意味し、そこから教え込むことにより伝達される霊的な栄養を意味し、『かれはその宿の主人に二デナリオを与えて、かれに言った、かれの世話をし、何であれさらにあなたが費やすものは、わたしが再び帰ってくるとき、わたしはあなたにつぐなましょう』はかれの能力と才能との限度における仁慈の凡ゆるものを意味している。このことから『レビ』、『その種族』、『レビ族』が各々の意味で意味していることを今や認めることができよう。(『レビ』により、またかれに因んで名づけられたその種族により表象され、そこから意味されていることについてさらに多くのことが「秘義」、3875−3877、4497、4502、4503、6352、10017番に見ることができよう。)

 

黙示録講解1154

 

『かれをかれ自身の荷を負う獣に乗せること』は、かれにかれの能力に応じて教えることを意味しており(375ホ、376ホ、4448を参照)、そこにこのことが説明されている。ろばが意味されている所の『荷を運ぶ獣と羊』は霊的自然的な起源から発している諸真理と諸善とを意味している、と言われているのは、主の外なる教会の中におり、かくて第一の、また最低の天界の中にいる者たちの中に在るような諸善と諸真理とが意味されているためである。これらの者は自然的なものではあるものの、それでも霊的なものを受け入れており、それで霊的自然的なものと呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義9780〔6〕

 

 主が世におられた時、主はサマリア人について『彼は盗人により傷つけられた人間のもとへ来て、その傷に包帯をし、油とぶどう酒とを注ぎ入れた』と言われた折のように、その語られた凡ゆる事柄の場合も同じである(ルカ10・33、34)。ここには油とぶどう酒とは意味されないで、愛と仁慈の善が意味されており、『油』により愛の善が、『ぶどう酒』により仁慈と信仰の善が意味されているのである、なぜなら取り扱われている主題は隣人であり、かくて隣人に対する仁慈であるからである(『ぶどう酒』にこの意義があることについては、6377番を参照されたい)。